はばたく日本の福音派
―日本福音同盟10周年記念―
<巻頭言>
JEA十年の歩み
安藤仲市
日本福音同盟創立十周年を迎え、歳月の流れの速きに驚くと共に、"十年一昔"ということばの意味を踏まえて、「ここまで主が私たちを助けてくださった」(Tサムエル七・一二)現実に思いを至し、主のご真実と豊かな御導きに対し、心から感謝と讃美をささげるものである。
(1)創立の意義と回想
「私の時は、御手の中にあります」(詩篇三一・一五)と、ダビデは告白したが、古来、"天の時、地の利、人の和"と申されているように、日本福音同盟の創立は確かに、主の優渥なる聖手の導きのもとに、そのものズバリの時宜を得た企てとして成立したのであって、過去十年の歩みを回想し、「このことは主から出たこと」(創世二四・五〇)と信じて、心から聖名に栄光を帰する次第である。
その成立と発足の経緯については、泉田昭師が、JPCの機関紙『聖書信仰』の紙上で数回にわたり「日本福音同盟の歩み」と題して克明に執筆され、また本記念誌にも稿を寄せておられるので、改めて記す必要もないが、十周年記念を迎えるにあたり、認識を新たにする意味において、記録を辿り簡単に申し述べれば、日本福音同盟(JEA)は一九六八(昭四十二)年四月二十九日、束京神田一ツ橋の共立講堂を中心会場として、創立総会および記念大会を開催した。
当時の組織、また理解としては、@JEF,JPC,JEMAは創立会員として、その他の福音諸団休は協力会員として大同団結し、A聖書信仰の共同保持と宣証、相互の理解と交わり、使命達成その他の活動の協力を目標とし、BJEF,JPC,JEMAより選ばれた代表よりなる実行委員会を執行機関とし、うぶ声をあげたのであって、これは日本のキリスト教史上、注目すべき出来事であったといえる(『日本福音同盟二ュース』第一号参照)。もっとも、"協力会員"という項目は、その後審議の結果訂正され、三創立会員のいずれかに属して協力するよう確認された。
(2)聖書信仰による団結
JEAは、「聖書は誤りなき神のことぱ」であるという一点に、協力と理解の一致点を置いていて、このことは「日本福音同槻(JEA)の声明と訴え」という声明文の中に、「聖書信仰」とは、「聖書に関して次のような信仰と理解に立つことをいう。『聖書は十全霊感による誤りなき神の言であり、信仰と生活の唯一無謬の規準である』」と明記されている。
以上を協力のカナメとして、相互の神学的立場を尊重し合い、互いの領域を侵さず、理解と尊敬とをもって親交を深め、その持ち味を生かし合い、謙遜に祈りとみことばに仕えつつ、共通の目的に向かって進んでいるのである。
(3)目的と課題
創立当時の蔦田実行委員長の論文を引用させていただく。
「JEAとは、日本の聖書信仰に立つ三つの組織体、即ちJEF(日本福音連盟)、JEMA(日本福音宣教師同盟)、JPC(日本プロテスタント聖書信仰同盟)を創立会員とする連合体である。しかも一挙に成立したものではなく、数年にわたる相互間の折衝と熟慮の末、摂理によって形をなすに至ったものである。
このように一見、すばらしいなりたちと内容の連合体であるから、名目的にのみ考えると信仰の混乱時代にある今の世界に、国内的にも国外的にも何か格別な活動や運動が期待され、また、それが可能であると考えられやすいが、その実、このなりたちと内容そのものに派手な活動をすることの困難さが横たわっていることに、目が開かれねばならない。
「摂理によって」ということは次の二点を意味する。第一は、神の摂理的干渉によらなければJEAは成立しえなかった、ということである。第二は、困難があるからといって、JEAは簡単に解体したり、桐互排除したりすることが許されないものである、ということである。
そこで大きな期待にそう活動に踏み出す前に、どうしても心を用いねばならぬことが三っある。@創立会員三者の相互理解の増進、A三者各自の内容の堅立、B三者からJEAに派遺される代表者(実行委員)たちの代表権の規定とその確立である。
「どうすればこれらが具体的に促進されるか」は、「JEAは何をせねばならぬか」という問題に先行する課題であると共に、それに対する解答そのものでもある(積極的行動派同志に、この辺の事情を理解していただく困難さがあることも知るべきであろう)。
それゆえ、JEF,JPC,JEMAの三者は、最適と思われる<形式>と<方法>において、もっともひんぱんに相寄って、祈祷と熟慮の末、日本の教会に「摂理によって」生れたJEAに無関心な態度をとることなく、真剣にその在り方と意義について共通の理解に達するように努めるべきである。それと合わせて、組織体としての三者各自の機構内容に対する端的な反省、吟味、修正がなされるべきであろう。そうすれば、今日のような危機的時代に、聖書信仰的な福音主義陣営に属する我らは、「JEAとして何をせねぱならぬか」ということも、もっと的確に判断でき、それを実行する条件も能力も生み出されるであろう。……」(『日本福音同盟二ュース』第一号より)
(4)理解と協力
前述の事情を把握し、その動機と目的から逸脱することなく、@聖書信仰による結束を密にし、創立会員相互の理解と交流を深め、協力を必要とする諸問題、並びに予期せぬ事態の発生に対しては適宜な措置を講じ、もって福音の使命達成に、支障なきを期する覚悟が大切である。
A一例を挙げれば、JEAが解体したと仮定して、その間何らかの緊急を要する事態の発生を見た場合、どのように福音陣営内に呼びかけ、打って一丸となり、それに即応する対策を取り得るか。その場倉、多くの手続上の遅れと困難が生じ、事態の収拾が不可能になる危険もあり得る。
BJEAの組織、機構にはその点、連絡上の迅速と万全の対策が期待され得るので、このような面からも存続と強化の理由が肯定されてくる。
(5)JEAの将来
摂理と導きによって発足したJEAは、恵みにより既に十年の安定した歩みを続けてきた。
今後も規約第四条の線に添い、従来確認してきたように、「各構成団体の特殊性を尊重しつつ、ひとたび伝えられた歴史的信仰の保持と立証を共通の責務として結束し、@相互の友好親睦、A教会内外に起こる諸問題、諸種の奉仕、福祉計画についての適切な措置、B必要に応じ各種専門機関の設置、C世界の同様な団体との協力提携を目的とし」、日本宣教のために互いに協議、協力、切磋琢磨して相互の賜物を頒ち合い、相携えて共通の目的を目ざし、日本の保守的福音陣営の対内・対外的交渉の窓口として存続育成されて行くべきであろう。
(6)内十年の歩みと展望
世上一般では、よく"石の上にも三年"という語があるが、JEA十年の歩みは良い意味で、試験期間を乗り越えて一応安定した基盤の上に立ち、自他共に福音陣営の窓口として高く評価されていることを、謙虚に受けとめたい。
"紫陽花や宣教の花今ひらく"
一九七四年五月には京都会館における、JEA主催の「第一回日本伝道会議」があのような豊かな祝福のうちに成果を果たし、日本のキリスト教史上最初の、大規模な伝道会議として実を結ぶに至った。
今回はさらに、創立会員の総意によって来たるべき、一九八○年または一九八一年を目標に、「第二回日本伝道会議」が計画され、すでに特別委員によって二〇〇〇人の代議員を目標に、検討、準備が進められつつあることも、祈祷の課題として置きたい。
(7)最後に
今後の祈りの課題として新しくJEAに加入する対象への努力と、将来のビジヨンを目標に、各自の賜物をフルに生かして時代に奉仕し、聖名の高揚と、聖書信仰の勝利と徹底とを期して、共に主の宣教命令に添う、いのちの交わりの同盟として、熱い心でますます一致協力を確認しつつ進むよう努めたい。
創立十周年記念史の出版にあたり、敬愛するチャーター・メンバーの諸先輩、諸先生に感謝するとともに、初代実行委員長たりし故蔦田二雄博士を初め、成立推進のために労され、今は日本宣教の任期を果たし帰国されている、初期の委員たりしJEMAの宣教師諸賢の労を思い感謝と敬意を表明したい。
過去十年のJEAの歩みを顧みて、同労の諸先生の後について共に手をつないで、ここまで導かれた恵みを思い、あいさつともならない文章ながら、参考までに現在に至った路線を確めつつ、将来を展望して拙文をまとめた次第である。
"あかしやの花の風ある砂丘かな"
(JEA実行委員長)
日本の福音派戦後三十年の歩み
―日本福音同盟十周年を記念して―
泉田昭
序
日本における福音派の誕生と活動は、すでに明治の時代においてみることができる。今から七十年前の一九〇八年(明治四十一年)には、すでに白由メソヂスト教団やアライアンス教団等が主として関西方面においてさかんに伝道しており、日本同盟基督教団の前身であるスカンジナビア・アライアンスや日本ナザレン教団等もすでに活躍を始め、昭和の初めころになると中田重治を中心とする東洋宣教会が非常な勢いで全国各地に広がっている。
太平洋戦争への突入によって、日本のキリスト教はきびしい状況のもとに置かれ、宗教団体法によって諸教派は政府の指導で合同させられ、ホーリネス系の多くの教職は投獄され、ある者はついに獄死した。一九四五年八月、日本は戦いに破れ、十一月には宗教団体法が廃止され、信教の自由が全面的に認められるようになった。日本のキリスト教は、諸外国のキリスト者の祈りと協力とによって復興し、はなぱなしい宣教活動を展開した。
それから三十三年の年月が過ぎた。その戦後三十三年を、便宜上、次のように分けてみた。
第一期 復興期(一九四五年〜一九五五年)
第二期 発展期(一九五六年〜一九六六年)
第三期、混乱期(一九六七年〜一九七七年)
これはあくまで便宜的な分け方であるが、この分け方に従い、しかもできるだけ福音派に焦点を合わせながら、日本のプロテスタントの歩みを概観することにしたい。
第一部 日本のキリスト教と福音派
戦後日本におけるプロテスタントは、戦争中の合同教会のまま出発したが、やがて多くの教派が離脱したり宣教団の伝道によって生まれ、いわりる自由派と福音派とに分かれて、それぞれ別の歩みをするようになる。両者はその信仰の内容において異なるだけでなく、自由派はエキュメ二カル運動としてWCC(世界キリスト教協議会)と連帯し、福音派も諸教派の交わりを育てながら世界の福音派との交流を深めている。
T日本のキリスト教の復興期
一九四五年(昭和二十年)から一九五五年(昭和三十年)まで
戦争が終わると、世界のキリスト者たちは直ちに、日本のキリスト教に援助の手を差しのべた。一九四五年十月、米国聖書協会は戦後の精神的虚脱状態にある日本国民に二百五十万冊の聖書を贈呈し、合衆国教育使節団のメンバーとして来日した四人のプロテスタント代表は、日本の教公の復興のために全面的に協力することを約束した。アメリカの大きな諸教派は、幾度かの話し合いの結果、日本基督教団を援助することを決め、一九四七年には内外協力会を発足させている。そのため、日本基督教団はその信仰的あり方を充分に整理することなく、復興と発展の道を歩みはじめた。そのことと、さらに多くの旧教派系の宣教団(ミッション)が来目したことのために、多くの教派が離脱して新しく教団を再建するようになった。
戦後の日本の福音派は、大きく三つに分けて考えることができる。第一は、このように日本基督教団から独立して生まれた諸教団であり、第二は、戦後新しく創設された諸教団であり、第三は、新しく来日した宣教団の働きによって生まれた諸教派である。そのほか、日本人の自主的な伝道によって誕生した多くの教会がある。これらがさまざまの流れをつくり、あるときは合流し、あるときは支流を生み、今日の福音派という大きな流れを形成している。
一 福音派の誕生
このように、日本の戦後の福音派は大きく三つのルーツをもっているということができよう。それを調べると、次のようである。
a 日本基督教団からの独立
戦争が終わると、日本基督教団の再建が始まるとともに、前述の理由から日本基督教団から離脱して新しく教団を再建する者たちが相ついで現われるようになった。それらの教会または教団は、次のようである。
日本基督改革派教会 一九四六年、日本基督教団から脱退し、ウェストミンスター信仰告白によりつつ改革派教会を創立した。常葉隆興、岡田稔、松尾武の諸師が中心となり、南長老派、クリスチャン・リフォームド、正統長老派等の宣教団と協力し、全国的に伝道と教会形成の働きを始めた。
福音伝道教団 一九四七年に離脱し、小林誠一、吉村房次郎の諸師が中心となって創立し、主として群馬・埼玉・栃木の三県において伝道の働きを進めてきた。
日本ナザレン教団 同じく一九四七年に離脱、エコール師を総理として迎え、喜田川広、諫山修身、木田愛信、桜井鶴太郎、船越多吉、北村武雄の諸師によって全国に伝道の輸を広げていった。
日本同盟基督教団 一九四八年に離脱し、九月に創立総会を開き、ティームと協力して多方面にわたる働きを始めた。日本クリスチャン・カレッヂ、いのちのことば社、太平洋放送協会等とも緊密な協力関係にあり、松田政一、野畑新兵衛、安藤仲市の諸師が指導者となって今日に及んでいる。
日本ホーリネス教団 一九四九年に離脱し、車田秋次師を総理に選んで再出発した。このとき日本基督教団にとどまった人たちは、教団の中でホーリネスの群れを形成している。さて新教団は、米田豊、山崎亭治、尾花晃の諸師を中心に、全国的に伝道の戦いを進め、東洋宣教会の宣教師たちがそれに協力した。
日本アライアンス教団 同じく一九四九年に離脱。大江捨一師が中心となって再建され、アライアンス・ミッションと協力しながら主として中国・四国地方において伝道した。
日本アッセンブリー教団 一九四九年に離脱。弓山喜代馬師が中心となり、来日した宣教団と協力しながら全国的に伝道の働きを進めた。
日本イエス・キリスト教団 一九五一年に離脱。沢村五郎、小島伊助、佐藤邦之助、中島彰、本田弘慈、森山諭、長島幸雄の諸師により、全国的に、特に関西方面で伝道と教会形成の働きを進めた。
日本自由メソヂスト教団 一九五二年に離脱。織田金雄、字崎竹三郎、高野鷹信、畑野基の諸師を中心に、主として関西方面で伝道と教育活動を行ない、来日した宣教師たちが協力した。
これらの諸教団は、それぞれの信仰と理念によって積極的な伝道を行ない、多くの教会を生み、発展していった。一九五五年頃には二千人から三千人程の会員をもつ教団に成長している。
これらの諸教団のうち、日本ナザレン教団、日本アライアンス教団、日本イエス・キリスト教団、日本自由メソヂスト教団、日本同盟基督教団、日本ホーリネス教団等によって、一九五一年七月日本福音連盟が結成された。「きよめ」を基とした交わりと協力を主旨とし、『リバイバル聖歌』の発行等多くの働きをしてきた。日本基督改革派教会、福音伝道教団、日本アッセンブリー教団は、日本福音連盟には加盟せず、独自の歩みを続けた。
b 新教団の創設
戦後まもなく幾つかの新しい教団が、それぞれの理念に基づいて創設された。一九四六年、イムマヌエル綜合伝道団が、蔦田二雄、岩城幸策、山本岩次郎の諸師によって創設された。蔦田師は、一九四二年に宗教弾圧のために投獄され、戦後釈放されると信仰を同じくする者たちと共にイムマヌエル綜合伝道団を創立し、全国的にその働きを始めた。その年、田中敬止、森五郎、池本金三郎の諸師によって、基督兄弟団が設立されている。一九五二年には、吉野勝栄、星野栄一の諸師によって、日本福音教団がつくられた。このように、中田重治のホーリネスの流れを汲む者たちによって、新しい教団が次々と創立されたのである。
そのほか、日本人の指導者たちによって、新しい教団や教会が、日本のあちこちに多く創立され、それぞれ自由に伝道活動を始めた。
一九五〇年ころ、蔦田二雄、谷口茂寿、能野清樹、長谷川真の諸師によって、日本新教連盟がつくられ、交わりと協力の働きの場となっていたが、その実質的な働きはあまり長くは続かなかったようである。
C 宣教師の活躍
敗戦によって自由が訪れた日本に、多くの宣教師や団体が訪れ、多くの分野にわたってはなばなしい伝道活動を繰り広げた。一九五一年には約二千人、一九五五年には約四千五百人の宣教師が、日本において伝道活動に従事している。
宣教師の働きは、大きく二つに分けることができよう。第一は、教派的な働きである。多くの宣教師は、日本基督教団から離脱した指導者たちと協力し、新しい教団の再建と発展のために尽くした。教育と開拓伝道の面で特に貢献した。また、ある宣教師たちは、新しい教派的な背景のもとに独自の伝道活動を進め、その結果、多くの教団または教派が創設されたり再建されたりした。ルーテル系、長老系、バプテスト系、自由教会の流れ、単立系等約九十前後の新しいグループが生まれている。第二は、超教派的な働きである。大衆伝道、文書伝道、放送伝道、学生伝道等の諸分野において、独自の働きが進められて行った。
宣教師の働きによって、多くの教会が生まれ、多方面で働きが進められて行った。日本の福音派の復興と発展に尽くした宣教師の貢献は、過小評価されてはならない。宣教師は、交わりと協カのために、一九四七年十月、EMAJ(ジ・エバンゼリカル・ミッションズ・アソシエィション・オブ・ジャパン)を設立した。一九五一年頃には、一部の宣教師と日本人が協力して、JBCC(ジャパン・バイブル・クリスチャン・カンスル)をつくっている。
二 教会の発展
戦後の十年間、日本のプロテスタントは教派を問わず、すべてがめざましく復興し発展して行った。戦争直後壊滅状態であった教会は、諸外国のキリスト者の祈りと援助によっていちはやく復興し、多くのミッション・スクールも大きな発展を見た。
a 教会の復興
教会の復興には、三つの要因があった。第一は、時の流れで、敗戦で虚脱状態の中で新しい生き方を求めなければならない日本人にとって、キリスト教は大きな救いであった。多くの青年たちが教会やキリスト教の集会に集まった。第二は、経済的援助であり、土地の購入と会堂の建築・ミッション・スクールの再建のために莫大な資金が投入された。日本バプテスト連盟等のように、この時代に飛躍的に発展した教団や教会も少なくなかった。第三は、指導者の要素で、すぐれた牧会者や指導者のいる教会や教団ほど大きく発展している。
一九五五年度の各教団の教勢をみると、次のようである。
日本基督教団 一二六、九〇六
日本聖公会 三七、二九〇
バプテスト連盟 八、〇一四
イムマヌエル 二、七五二
日本イエス・キリスト 三、七九九
ホーリネス 二、七〇〇
基督改革派 三、〇三〇
同盟基督 一、三六五
日本のプロテスタントの全体を見ると、戦後十数万人であったのが、二十七万人に増加している。日本基督教団は多くの教派が離脱したので、増加するよりも減少して約十二万七千人、聖公会は倍増して三万七千人、日本バプテスト連盟は約七倍の八千人である。福音派では、日本基督教団から離脱した多くの教団がその基礎を固めながら発展し、前述のように二千人から三千人の規模に達している。宣教師団体による働きは、比較的多くの人を集めながら、教会や教派としての基礎はあまり育たなかったようである。それは、宣教論よりも、むしろ教会観に欠けていたためであろう。
b 協力伝道の推進
協力伝道または超教派的な伝道活動もはなやかに繰り広げられた。エキュメ二カル派では、一九四六年から約三年間、賀川豊彦が中心になって新日本建設キリスト運動が全国的に展開され、百二十万人の聴衆と二十万人の求道決心者を得ている。福音派ではユース・フォア・クライスト等による街頭伝道や大衆伝道がはなやかに行なわれ、多くの入信決心者を出している。そのほか、リバイバル・リーグの働きをはじめとする多くの協力伝道が行なわれた。それらの求道決心者を巧みに吸収した教会や教団は、それぞれ大きく成長している。
早稲田大学を初めとする各大学の中でも熱心に学生による伝道が行なわれ、お茶の水地区でも連日のように伝道集会が行なわれた。多くの学生がキリストを受け入れ、また多くの学生たちが献身し、そのために杉並区に東京神学塾が設けられた。キリスト者学生会も誕生し、学内の伝道とキャンブで大きな成果をあげている。高校生のための伝道も行なわれ、多くの集会が各地で行なわれた。この頃キリスト者となった多くの者たちが、今日牧師や宣教師となって活躍している。その他、多くの超教派的な働きが、宣教師によって紹介され、推進されている。
C 交わりの組織
この時代、すでに言及したように、福音派の中においても幾つかの文字通り超教派的な交わりの場が、組織としても誕生している。最初に誕生したのは、宣教師の交わりの組織でEMAJである。一九四七年八月、多くの宣教師がチヤペル・センターに集まり、テイームの宣教師であるC・E・カールソン師を議長に選び、宣教師の交流のための組織をつくることを決議した。十月二十四日、再びチャペル・センターに集まり、W・A・エッケル師を初代会長に選び正式に発足した。その目的と事業に関しては多くの論議が重ねられたようで、一九五二年二月の委員会で、「EMAJは日本にわける福音的な宣教師の交わりであり、日本における宣教のための交わりである」ことが確認された。事業としては、毎年夏に軽井沢で修養会を開くこと、『ジャパン・ハーベスト』という雑誌を年四回、『宣教師年鑑』を毎年出すことを決めている。
一九五一年には日本福音連盟が誕生し、初代理事長に平出慶一師を選出している。聖書的きよめを強調し、交わりと協力伝道を推進し、『リバイバル聖歌』を出版している。その後、車田秋次師が理事長となり、その働きを継承発展させて行った。
同じ頃、日本新教連盟が生まれ、聖書信仰に立った交わりと教会学校の教案の出版などの働きを行なうようになった。
一九五一年にはJBCCが誕生し、より強固な聖書主義に立ち、モダ二ズムや偶像礼拝との妥協的態度をきびしく正すようになった。
これらのほかにも交わりの場はあったが、それぞれの人脈と立場のゆえに、お互いの間にはあまり交流はなかったようである。
U 日本のキリスト教の発展期
一九五六年(昭和三一年)から一九六六年(昭和四一年)まで
第一の復興期では、教団の復興と共に離脱と乱立が目立ったが、第二の発展期になると、それぞれの教団のあり方が次第に落ち着き、しかも自由に宣教活動を行なっている。その結果、各教団とも比較的順調に発展している。
この十一年問、日本のプロテスタントは、二十七万人から四十六万人へと飛躍的に増加している。日本基督教団は十二万六千人から一九万四千人に、聖公会は三万七千人から四万七千人に、日本バプテスト連盟は八千人から一万八千人に、福音的諸教派は概数だが三万人から七万人程になっている。特にイムマヌエル綜合伝道団と日本イエス・キリスト教団は共に七千人に近づき、福音派の中ではトップグループを形成するようになった。ホーリネス、アッセンブリー・改革派、ナザレン、自由メソヂスト等は四千人から五千人である。戦後宣教団によって始められた新しい諸教団は、その基礎づくりに追われて三、四百人程度で終わっている。朝鮮戦争を経て日本が経済的復興から繁栄の時代を迎えろにつれ、基礎がなく日本の現実に即しきれないこれら新しいグループは、成長しきれない苦悩を味わわなければならなかったようである。
このように、一九五六年から六六年までの十一年問は、全体として見るとき、日本のブロテスタントは大きく発展しているのであるが、個別的に見ると、それぞれのグループに微妙な差が生じつつある。あたかもマラソン競走のように、最初は全員が一団となって走っているが、中盤になると幾つかの集団に分かれ始めるのと同じである。それは、実力が発揮される時であり、また問題が明らかになる時でもある。その問題の幾つかを考えてみよう。
一 人の問題
人は城であり伝道は人による。良い指導者と良い人材に恵まれている教団はめざましく発展している。この時期の教会や教団の発展と人との関係を調べると、三つの問題が浮び上がる。
a 宣教的体質
日本基督教団や聖公会に比べて、日本バプテスト連盟や福音派の諸教会の発展のめざましさが印象的である。それには多くの理由が考えられる。例えば、多くの宣教師が協力していること、会堂建築や施設のために莫大な経済的援助があったことなどである。しかし、それだけではない。日本基督教団や聖公会が比校的伝統的であるのに対し、日本バプテスト連盟や福音派は比較的に伝道的であろことも、その理由として考えることができよう。単純な福音の真理を明確に信じ、積極的に明るく伝道に励むとき、多くの失われゆく魂を救いに導くことができるし、当然の結果として、そのような教会や教団は大きく発展する。積極的に伝道する信仰的体質、これがまず発展の大きな要素であるということができよう。
第二は、牧会的な体質である。同じ福音派においても、福音を宣べ伝えることのみに熱心なグループはあまり仲びず、それに加えて牧会的指導と教会的訓練の行き届いた教団は大きく成長している。財産をつくる秘訣は多く稼いで多く残すことで、多くの人を救いに導いても育つ人が少ないときには成長しない。戦後の多くの宣教団は、宣教には熱心であっても教会観があいまいであったり、教育のプログラムが不十分であったために、その働きがあまり実を結ばずに終わってしまったようである。それに対して、イムマヌエル、日本イエス・キリスト教団、改革派はこの時代に共に大きく成長している。
b 指導者の養成
教育は即効を期待することはできないが、発展の最も重要な要素である。人を育てる教会は成長し、指導者を養成する教団は発展する。福音派の多くの教団は、それぞれの信仰によって意欲的に伝道し、多くの教会をつくり、また聖書学院や神学校を設けて熱心に教育を行なった。イムマヌエルは聖宣神学院を創設して献身者の教育を行ない、日本イエス・キリスト教団は関西聖書神学校と協力して多くのすぐれた牧会者を育てた。ホーリネス教団は東京聖書学院で修養生の訓練をし、改革派は神戸改革派神学校で神学教育を施した。日本同盟基督教団は東京キリスト教短大、聖書神学舎や日本基督神学校で牧師の卵を養い、そのほか東京神学塾、聖書神学舎、共立女子聖書学院、聖契神学校、大阪聖書神学校等、実に多くの神学校や聖書学校から多くの牧師や指導者が送り出されたのである。そのほか、多くの者たちが海外留学を終えて帰国し、各方面で活躍している。
順調に発展している教団は、開拓伝道、教会形成、神学教育の三つが一つに融け合い、有機的に機能している。逆に、教会と神学校との関係に誤解や緊張関係があったり、神学校が教会の現実から遊離している時には、あまり成長が見られない。また、神学校が学問的であろうとして信仰的にリベラルになると、教会の霊的活力を奪い、教団に混乱を生む原因ともなってくる。
いずれにしても、その当時聖書学院や神学校で学んだ者たちが、今日では教会を立派に育て上げ、それぞれの教団の指導者として活躍しているのである。
C 指導者の交替
指導者の健全な交替も発展の大きな要因である。戦後多くの教団が創立きれたが、それぞれの教団の中に多くの牧師や指導者が育ってきた。彼らはまず派遣されたり開拓教会を育てながら、その教団の中堅的指導者として成長して行った。また、各種伝道団体においても、その働きの実質的な責任を担うようになった。宣教団によって始められた多くのグループも、日本人指導者によって新しい教団としての運営が行なわれるようになった。そのようなリーダーシップの成長と交替は、ある教団ではスムーズに、あるグループでは緊張関係をともなって行なわれて行った。
一般的に言って、福音派の中で比較的大きい教団では、彼らは中堅的指導者として活躍し、教団の実質的な働きを担うようになっている。各種伝道団体では、放送伝道でも文書伝道でも学生伝道でも日本人のスタッフがその働きの実質的な担い手として活躍するようになっている。新しい教派では、宣教師が背後に退くといったかたちで日本人の指導者が活躍するようになってきた。このような現象は、アジアの諸国に比べて日本で著しい現象であり、宣教師の謙遜と日本人のリーダーシップの賜物である。そして、この期間、このようなリーダーシップの交替がスムーズに行なわれた団体ほど大きく発展している。
二 協力の問題
この時代のもう一つの大きな問題は、協力の問題である。それは大衆伝道、教会と各種伝道団体の協力関係、連絡交流機関のあり方をめぐって表面化してきた。
a 大衆伝道
一九五九年(昭和三四年)に大阪クリスチャン・クルセードが大きな成果を収め、一九六一年に東京においてクルセードが行なわれることになった。その実質的な主催者は伝道と社会事業ではなばなしく活躍していたワールド・ヴィジョンであり、説教者はその総裁であるボブ・ピアス師であった。東京では、当時のNCC議長であった武藤健師が中央委員会委員長となり、当時のキリスト教界の代表的指導者たちが参加し、五月六日から一ヶ月問、東京都体育館において行なわれた。その一ヶ月で延二十二万六千人が集まり、約九千人の決心者があった。このクルセードには賛否両論激突し、大衆伝道における協力の問題がクローズアップされた。賛成者は救霊伝道の良い機会・方法であると確信し、反対者は教会の主体性がないこと、協力の手続が不当であること、反共的クルセードであること、協力の幅が広すぎること、などをその理由としてあげた。
一九六四年、本田弘慈師は東京および近郊の福音的教会と協力し、東京福音クルセードを九月五日から十三日まで文京公会堂において行なった。約二万人の参加者があり、約二千人の決心者が出た。日本人による日本人のためのクルセードとしては画期的なもので、本田師はそのようなクルセードを全国的に展開した。
一九六七年には、ビリー・グラハム国際大会が武道館および後楽園スタジアムにおいて行なわれた。蔦田二雄師が実行委員長であった。会衆は約二十万、決心者は一万五千人であった。この時にも反対の運動があった。
このようにクルセード方式による大衆伝道が次々と行なわれ、日本の教会に大きな刺激を与えるとともに、協力伝道のあり方がきびしく論じられた。その結果、教会の主体性ということが特に強調されるようになった。そのような中で、一九六四年に「深みの伝道研究委員会」が生まれ、羽鳥明師が中心的指導者となって活躍し、今日の「総動員伝道」として全国にその働きを進めるようになった。
b 各種伝道団体と教会
このような大衆伝道の働きが全国的に展開され、また放送・文書・学生伝道等の働きが多く行なわれるようになると、教会との関係が大きな問題となってきた。つまり、そのような働きに教会が参加するのか、教会がそのような働きを推進するのか、といった問題である。それは、一般化すると各種伝道団体と教会との関係の問題であり、本質的には教会観と宣教論にかかわる問題である。
日本の戦後の福音派においては、超教派的大衆伝道が繰り返し行なわれ、多くの各種伝道団体があるために、この問題はきわめて重要なものとなってきた。多くの論議があったが、まとめると宣教論と教会観に尽きるようである。宣教論としては、教会の主体性のない大衆伝道は稔りが少なく、時としては教会の健全な成長を妨げるといった批判がある。この時期は、教会の充実・発展の時であっただけに、このような意見には根強いものがあった。しかし、大衆伝道の貢献を過小評価する傾向があったことも事実である。各種伝道団体や神学校も、その協力と経済的基盤を日本にある教会に置かなければならなくなりはじめ、教会との関係が真剣に考えられるようになった。そのような状況の中で、教会観を確立する必要が強調されるようになった。しかし、教会が即地区教会や教派的教会と考えられる傾向があり、その明確な整理と確立は依然として今日の課題である。
c JPCの誕生
一九五九年は、日本にプロテスタントの宣教が開始されて満百年であり、福音派の諸団体が協力して「宣教百年記念聖書信仰運動」を全国的に展開した。才ズワルド・スミス、エドワード・ヤング、ロジャー・二コルス等を講師として招き、全国的に集会を行なった。その運動が終わった十一月、熱海において行なわれた中央委員会において継続的な組織をっくることが決議され、そのようにして翌一九六〇年二月に生まれたのが日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC、ジャパン・プロテスタント・カンファランス)である。
目的は大きく三つあり、@聖書信仰に立つ教職と信徒の交わり、A聖書信仰の啓蒙と徹底、B当面している問題に一致してあたることであった。実行委員長に常葉隆興師、副委員長に蔦田二雄師、書記に蔦田師とW・A・マキルエン師、会計に安藤仲市師とJ・シュワーブ師が選ばれた。そのほか、各種委員会が設けられ、それぞれ活動を行なうようになった。
一九六〇年には、機関誌『聖書信仰』が発刊され、全国に地区委員会が設置され、会費として年額三百円が決められた。このようにして、JPCは交わりと運動のために、また組織としても整えられていった。特別委員会の中で、聖書翻訳特別委員会は聖書改訳の必要を強調し、それがやがてロックマン財団やいのちのことば社と協力して新改訳聖書を生み出す大きな力となった。堀川勇、松尾武の諸師はそのために貢献された。神宮対策特別委員会は、主として水垣清師によって推進され、伊勢神宮の問題が扱われ、やがて靖国神社国営化反対運動の礎となった。
一九六三年頃になると、泉田昭師が会計に就任し、村瀬俊夫師が編集の実務を担うようになり、次第に若い世代の者たちも実行委員会に参与するようになってきた。
三 発展への苦悩
この一九五五年(昭和三十年)からの約十年間は、日本が経済的には復興から繁栄の時代に入った、ということができよう。日本の社会に大きな変化が現われ、人々の意識も変わって行った。それはいわゆる都市化現象であり、歴史と社会の意識が鋭くなり始めてきたことである。
a 都市化現象と教会
経済と文化が急速に発展するにつれ、人々も雪崩のような勢いで都市に集まるようになってきた。その現象は、教会にもさまざまの影響を与えるようになった。地方の教会から都市に移るキリスト者が増加し、地方における伝道が著しく困難になり、また蒸発するキリスト者が激増するようになってきた。地方の教会は、因習と戦いながら獲得した若い世代の信者や求道者を次々と大都会に送り出さなければならなかった。そのために、血の参むような伝道を続けながら、教勢は伸びるどころか衰退していった。都会にある教会は、あまり努力しなくても順調に発展していった。戦後日本で伝道を始めた多くの宣教団は、教会の少ない地方でその働きを始めたために、教会は成長せず苦戦を続けなければならなかった。
次に問題となったのは、地方の教会から都会に移って来たキリスト者が必ずしもスムーズに都会の教会に融け込めず、蒸発して行ったことである。地方の家族的な交わりの中で育った者には、都市の教会はあまりにも冷たく感じられた。多くの教派の乱立のゆえに、移住したところに同じ教派の教会があることは稀であった。これらの理由で、都市に移ったあと教会生活をやめてしまうキリスト者が激増している。在籍会員と活会員のギャップが大きくなり、日本基督教団や聖公会では活会員は在籍会員の四分の一、福音派でも比較的大きい教団では二分の一程度になっている。したがって、会員数で実勢力を表わすことは不完全である。
最後に、人々の意識の変化につれ、キリスト者も社会的・歴史的意識を強く持つようになってきた。単純な信仰では満足できず、神学的・思想的・社会的発展を要求するようになってきた。一般的に、福音派ではその方面での展開は必ずしも十分でなく、その結果、福音派の教会からNCC系の教会や無教会の集会に移る者も現われ始めた。福音派の教会は懸命に伝道して多くのキリスト者を生むが、育てきれないで多くの若い優秀な信徒を失ったようである。
このような理由で、この時代に、福音派の教会は必ずしも大きく発展したということはできないであろう。
b 新改訳聖書と日本福音主義神学会
福音派のこのような苦悩の中にあって、神学校における教育は充実して行なわれた、ということができよう。聖書学や神学の部門において特に充実した教育が行なわれ、言語、聖書学の分野で有能な卒業生が多く出るようになった。また、海外で学んで帰ってくる者たちの活躍も目立つようになった。
福音派において聖書翻訳の必要性は、前述のようにJPCの特別委員会において特に強調されていたが、人材と経済の両面からその実現は困難視されていた。ところが、マックビティー師の努力によってロックマン財団といのちのことば社が協力することになり、そのための組織が生まれた。「福音派の中に聖書翻訳をできる者がいるのか」という声も聞かれたが、堀川勇、松尾武、舟喜順一、名尾耕作の諸師が中心となり、多くの若い翻訳者たちが協力して、ついに完成したのである。それは、福音派の聖書学的成長を表わすものとして、画期的なことである。
JPCは、聖書信仰を交わりの礎として成立しているのであるが、指導者たちにはカルヴァン主義に立つ者もいればアルミ二ウス主義に立つ者もいた。聖書信仰において交わりが成立していることは恵みであるが、具体的な信仰的・神学的な話し合いはためらわれる雰囲気が強かった。そのことは、神学的な対話をも求める若い指導者たちには不満で、JPC実行委員会の帰路、今野、村瀬、泉田、斎藤の四名が語し合ったことが契機となって、一九六九年、日本福音主義神学会が誕生することになる。教派をこえた神学的交流と対話の必要を痛感していた者たちは非常に多かったようで、その結成のために多くの者が参加した。教派的には改革派、長老派、バプテスト、ルーテル、ホーリネス、アッセンブリー、単立と、ほとんどに及び、多くの神学教師、牧師、信徒が参加した。初代理事長には矢内昭二師が選ばれ、会員は全国的に広がっていった。
新改訳聖書の翻訳出版と日本福音主義神学会の設立は、日本の福音派の神学的水準を引き上げ、その信仰的充実のために大きな貢献をした。若い牧師や信徒に福音主義信仰の確信を与えた点で、その頁献は特に大きいと言えよう。
c JEA誕生前夜
日本の福音派は多くの教派が自由に活動しており、それだけに交流や連結の機関の必要が早くから痛感されていた。日本福音連盟は早くからそのような役割を果たし、宣教師の間ではEMAJやJCEMが、さらにJPCがそのような働きをしてきた。しかし、それらはいずれも日本の福音派を全体として代表するものではなく、さらにそれらの間の交流の必要があった。
一九六四年一月、五つのグルーブ(日本福音連盟、JPC,EMAJ,JCEM,JBCC)の代夫が山王ホテルに集まり、最初の懇談会を開いた。日本福音連盟からは車田、喜田川、北村、星野、金田、大江等の諸師が、JPCからは常葉、蔦田、泉田、堀川、松尾、マカルピン、シュワーブ等の諸師が、宣教師の三団体からはアーチャー、レイノルズ、リーズナー、ソーリー、フォックスウェル等の諸師が出席した。最初の懇談会は相互理解を主要目的とし、それぞれの歴史、目的、事業活動を紹介し合った。
第二回の懇談会は、同年五月にお茶の水学生キリスト教会館において行なわれ、JCEMのR・フリーゼン師が、@われわれはキリストにある交わりを必要としている、Aそれは宣教の大事業を遂行するためである、Bそれは福音派の一致したあり方のためである、という三つの内容をもったステートメントを発表し、そのために五者が協力する機関が必要であると強調した。他の団体も基本的には賛成した。第三回懇談会は、同年十一月に開かれ、星野師は大衆伝道のために協力し合うように主張した。しかし、伝道は本来教会や教団がすることであり、これは連絡と交わりのためであるという意見が主流を占めた。そして、「日本福音主義団体連絡委員会」(ジャパン・エバンゼリカル・グループス・リエゾン・コミッティー)という長い名称をもった機関をつくることが決まったのである。
一九六五年五月には草案委員会が決まり、福音連盟から星野師、JPCから蔦田師、EMAJからアーチャー師、JCEMからベンソン師、JBCCからジヨセフ師が選任された。その内容とあり方に関する話し合いは、あまり進展しなかった。しかし、一九六六年頃になると、三っの重要な変化が起こった。第一は、福音連盟の内部でリーダーシップの変化が起こったことで、宇崎、安藤の諸師が指導されるようになった。その結果、話し合いは急速に進むようになった。第二は、JCEMとEMAJが一つとなる話が次第に具体的となったことである。第三は、JBCCが話し含いから実質的に離れ始めたことである。これらの変化のゆえに、五者は実質的に三者となり、相互理解が進み、協力の気運が大きく盛り上がってきた。
V 日本のキリスト教の混乱期
一九六七年(昭和四二年)から一九七七年(昭和五二年)まで
日本は、経済的には繁栄し、社会的には都市化し、人々の意識も生活も多様化して行った。その変化に最も敏感な学生や社会の中間層をかかえながら、その変化に鋭く対応できなかった社会(大学と教会)に、やがて激しい混乱が起こり始める。初めは、問題を意識する者たちは、教会を去ることによって問題を解決しようとしていた。しかし、時代の影響もあって、やがて教会の中にとどまってその問題の解決に努力しようとし始めた。その結果、教会の中に批判と混乱が目立つようになり、いわΦる造反運動として大きく発展していった。そのような現象は、問題意識の鋭い者を多くかかえ、それに対応するためにあわてて社会意識を強めていったNCC系の諸教会において、特に著しかった。
その混乱は一九七〇年から七一年がピークであり、その年を境にNCC系の諸教会は衰退を見せ始め、逆に福音派の諸教会は興隆し始めている。日本基督教団は一九七〇年には二十万五千人であったが、一九七七年には十八万八千人となっている。福音派は、推計であるが、約八万人が十一万五千人になっている。それは在籍者数であり、活会員は逆転して福音派の方が大幅に上回っている。福音派の中でも、ある程度成長した大きな教団より、戦後誕生したグループの諸教会の発展・成長が目立つようになってくる。聖書信仰に立って福音を大胆に語り、新しい時代に適した教会形成に励み、活力にあふれた若い指導者たちを擁していることなどを、その理由として考えることができよう。
日本のプロテスタントのキリスト教は、混乱の時代を経て新しいあり方を確立しつつあるように思われる。それを捉したのは、福音派の興隆と、特に新しい世代の教会の発展とである。
一 キリスト教の分極化と協調
意識の多様化は、福音の理解と教会のあり方を巡って対立を生じ、いわゆる社会派と教会派に分極化して行った。しかし、福音派は多様なあり方を尊重しつつ、一致への道を進んで行った。
a 国際大会と万博と
前述したように、一九六七年にピリー・グラハム国際大会が武道館と後楽園スタジァムにおいて行なわれ、二十万人の会衆を集めて大成功のうちに終わった。その国際大会を日本において行なう話は、D・ホーク師と羽鳥明師を通して打診された。最初の話し合いがYMCAにおいて行なわれ、その後幾度かの話し合いの結果、島村亀鶴、高瀬恒徳、車田秋次の三師が顧問に、蔦田二雄師が実行委員長に、羽鳥明師が総務局長に、本田弘慈師がカンセラー.フォローアッブ委員長に、安藤仲市師が財務委員長に、その他多くの教職と信徒が参加して準備が進められた。そして二十万人の会衆、一万五千人の決心者を得て、この国際大会は終わったのである。
この国際大会は、日本の教会の主体性のもとに行なわれたこと、聖書信仰に立つ福音派が幅広く結集したこと等において、大きな特徴があった。事実、この国際大会における交わりと協力が、日本福音同盟誕生の大きな力となったことは否定できない。
この国際大会に対する批判と反対もあった。ビリー・グラハムの協力関係は広すぎるといった批判から、社会的感覚の欠けた反共運動にすぎないとする反対運動まで、多様な批判と反対があった。しかし、そのような批判や反対は十分な説得力を持たないままで終わった。
一九七〇年になると、安保改定と万博で日本の社会はあわただしくなってきた。この年、キリスト教界では三つの大きな催しがあった。すなわち、@バプテスト世界大会、A大阪福音クルセード、B万博におけるキリスト教館の働きである。バプテスト世界大会は五年に一度世界の各地において行なわれるものであるが、一九七〇年七月、東京の武道館において行なわれ、全世界から八千人の代表が集まった。松村秀一師が委員長、中島義和、泉田昭、天野輝彦の諸師が総務となって行なわれた。反対運動も激しく繰り広げられた。大阪福音クルセードは、約六ヶ月問にわたり、本田弘慈師を講師に、堀内顕師を委員長、白井公郎師を事務局長にして展開された。
万博におけるキリスト教館建設とその働きに関しては、主として日本基督教団において激しい紛争が繰り広げられた。反対派の運動もすさまじく展開された。しかし、西村次郎氏を中心とする推進派は、断固としてそれを遂行した。この万博問題がやがて東神大紛争となり、日本基督教団は収拾のつかない混乱の時代へと突入して行ったのである。
国際大会と万博という二つの象徴的な出来事を通して、福音派は一致へと前進し、エキュメ二カル派は分裂へと踏み出した、ということができよう。
b 福音派における変化
福音派内における動きを見ると、やはり分裂と一致という両面があったことを知る。戦後創設された教団のうち、すでに一九五八年に、基督兄弟団から離れて、基督聖協団が生まれている。
一九六九年には、山本岩次郎師等がイムマヌエル綜合伝道団から離れて、日本聖泉基督教会連合を創設した。一九七一年、吉野勝栄師等が日本福音教団から離れて、日本福音教会連合を設立している。人間関係も問題であったようであるが、共に<教会連合>という名称を使っていることからもわかるように、教会観または教会政治のあり方にも起因しているように思われる。つまり、各教会の主体性の尊重は、この時代の大きな流れであった。
日本福音連盟にわけるリーダーシップが、参加教団の現実の指導者である穏健な人々に移るにつれ、それまでの指導者であった星野栄一師や金田数男師は、独自の動きをするようになった。そして、一九六八年一月、アジア福音連合日本福音<聯盟>を設立し、ICCCのマツカンタイヤー、香港のテモテ・ザオ、日本のケ二ー・ジョセフ師たちと共に諸運動を始めた。韓国・台湾・香港のキリスト者との交流に力をいれ、反共運動をも熱心に行なうようになった。
一致と協力への動きも一段と強まり、日本福音主義団体連絡委員会は幾度も交わりを重ねているうちに、さらに進んだ交わりの必要を全委員が感じるようになった。そして、「日本福音同盟」という構想がにわかに現実のものとして浮かび上がってきたのである。また、キリスト者信徒の自主的な交わりの気運も盛り上がり、日本クリスチャン信徒連盟誕生の動きが具体化した。さらに日本福音主義神学会設立の話も進み、その基本構想が固まってきた。このように、一九六六年から六九年にかけて、日本の福音派においては一致と協力の気運が各方面において盛り上がり、福音派の発展の礎石が置かれるようになったのである。
C 日本の福音派
「福音主義」あるいは「福音派」ということばには、歴史的にも神学的にも多彩な背景と内容がある。律法主義に対して福音主義という時もあれば、カトリックの教権主義に対して福音主義という場合もある。しかし、われわれが今日福音主義とか福音派というとき、信仰的自由主義に対して福音主義、エキュメ二カルなグループに対して福音派という表現を使っている。つまり、聖書は誤りのない神のことばであると信じ、基本的教理を保持し、救霊と伝道に励んでいる者たちのことである。
そのような者たちは、いわゆるエキュメ二カルな教団の中にも多く存在し、従って機械的に分けることはできない。しかし、前述したように、いわゆる福音派の諸教団はエキュメ二カルな教団とは独立して、その交わりを育ててきたのであり、日本では特にその区別が明確である。
福音派の諸教団は、その源流も信仰内容も多彩である。日本イエス・キリスト教団や福音伝道教団は英国からの宣教師であるバックストンやバーネットの影響を強く受けて育ち、ホーリネス教団、イムマヌエル、兄弟団、聖協団等は、中田重治のホーリネスの信仰を継承している。自由メソヂスト、ナザレン、アライアンス等は、アメリカにおけるそれぞれの教派の信仰の遣産を継承し、同盟基督教団はティームと協力して多様な信仰内容をもっている。その中には、アルミ二ウス主義者もおれば穏健なカルヴァン主義者もいる。改革派はカルヴァン主義の信仰に立って神学と教会形成に励んでいる。戦後来日した宣教団も、アメリカ、カナダ、ドイツ、スイス、スエーデン、ノールウェー、イギリス等世界の各国から来ていて、その信仰的遺産も立場も多種多様なのである。
このような多彩な信仰をもっている教団や教会を結びつけている共通のきずなは、「聖書は誤りのない神のことぱである」という聖書信仰であり、聖書信仰こそ共通の原理である。また、それは伝統的なキリスト教教理であり、救霊と伝道への熱情である。
二 福音派の成長
日本の福音派は、多彩な背景と信仰を持ちながら積極的に伝道し、教勢も全般的に伸びて行った。また、教会が成長するだけではなく、協力関係も神学的対話も大きく発展して行った。
a 日本福音主義神学会
教会や教団が自立・成長するにつれ、他の団体との成人した協力関係も育ってくる。一九六八年には、日本福音同盟が誕生し、歴史的な歩みを始めた。詳しくは改めて述べたい(第二部)。一九六九年には、安藤、宇崎、森山、北村の諸師の助言のもとに日本クリスチャン信徒連盟が誕生し、武井会長、前田副会長、成毛会計といったコンビで交わりと働きの輸を広げ始めた。
一九六九年十月二十日、泉田、宇田、今野、斎藤、榊原、村瀬の六師がJPCの会議室で、日本福音主義神学会設立の構想について話し合った。六名が呼びかけ人となって、十一月二十一日に練馬バブテスト教会において最初の懇談会を開き、十八名が集まって熱心な話し合いが行なわれた。先の六名に矢内昭二、H・スコーグランドの両師が加わって設立準備委員会が発足し、規約案がつくられたあと、一九七〇年一月二十六日に最初の発起人会が持たれた。二十八名の出席者があった。そして四月二十七日、お茶の水学生キリスト教会館において設立総会と記念講演会が行なわれ、理事長に矢内昭二師が選ばれた。記念講演は、宇田進師が「現代の神学的状況における聖書的神学の課題」、服部嘉明師が「御言葉の権威と学究」と題して、それぞれ熱心に講演した。定員百五十人のホールに聴衆があふれ、補助椅子を用意しなけれぱならなかったほどである。
事業としては、各部門ことの共同研究、研究発表や講演会の開催、『福音主義神学』の発行等である。特に外国のすぐれた学者を招いて講演会を行ない、F・シェィファー博士を初め多くの学者の講演会が開かれてきた。『福音主義神学』もすでに第八号を数え、多くの論文や研究発表や書評が載せられてきた。その間理事長も、矢内師から榊原康夫、宇田進、服部嘉明の諸師へと移り、組織的にも東部部会と西部部会とに分かれて、ある程度独自の活動をするほどになった。
福音主義神学会は、それ独自の活動によっても頁献してきたが、日本の福音派の神学的充実と向上のためにも大きな刺激となり、『新聖書注解』全七巻の執筆のために会員たちは協力している。福音派の健全な成長のために、このような超教派的な神学交流と研鑚の場はきわめて重要であると言わなけれぱならない。
b 新しい指導者
一九七〇年代になると、福音派の諸教派の指導者に若返りの現象が見られるようになる。同盟基督教団は安藤仲市師から岡村又男師へ、アッセンブリー教団は弓山喜代馬師から伊藤顕栄師へ、アライアンス教団は大江捨一師から田村幸三師を経て桑原重夫師へ、イエス・キリスト教団は長島幸雄師から鈴木一郎師を経て小豆正夫師へ、兄弟団は志村伝造師から池本金三郎師を経て毛戸健二師へ、福音伝道教団は小林誠一師から矢代博常師へと、それぞれ最高指導者が交替している。イムマヌエルは蔦田二雄師の突然の死によって福田約翰を経て朝比奈寛師が総理に就任している。戦後宣教団によって始められた諸グループも、それぞれ教団または教派としての形を整え、名実共に日本人の牧師がリーダーシップを持つようになってきている。一九七八年度の『基督教年鑑』をめくってみると、日本基督長老は丸山軍司師、日本バプテスト教会連合は泉田昭師、保守バプテスト同盟は若井啓治師、沖縄バプテスト連盟は国吉守師、リーベンゼラ日本伝道会は後藤茂光師、日本新約教団は宮村武夫師、世界福音伝道団は長沢敏雄師、日本福音自由教会は西本一雄師、西日本ルーテルは鍋谷尭爾師、日本聖約キリスト教団は吉岡章師、日本メノナイト・ブレザレン教団は大山勝師、神の教会連盟は今野孝蔵師が、それぞれ理事長・議長・委員長として活躍していることがわかる。
これら新しい世代の指導者たちには、幾つかの共通した傾向がある。第一は、四十歳台の指導者が多いことで、牧会的にも教団的にも超教派的にも、最も充実した働きをしている世代である。第二に、神学と実践のバランスがとれていることで、その両方の重要性をよくわきまえている。第三は、自らの教団の伝統と信仰と確信を持ちながら、しかも他の教派との交わりと協力を育てようとしている。第四は、教会観が明確で、教会や教団を基本とした協力関係を育てようとしていることである。それは、自らの信仰と牧会に成熟した者としての確信を持っているためであろうが、これからの福音派のあり方に大きな影響を及ぼすものと思われる。
C 教会の成長
日本の各地をまわって感じることは、NCC系の諸教会は立派な会堂を持っていても活力に乏しく、福音派の諸教会がめざましく発展していることである。福音派の教会は、聖書信仰に立って積極的に伝道し、教会観を明確にしながら教会成長に励んでいるためであろう。これからは、その違いがますます顕著となり、日本においても福音派がキリスト教の主流を形成することになるであろう。
福音派の中でも、大きな教団の教会よりも戦後誕生した教派の教会の方が、よりめざましく発展しているようである(図表参照)。なぜであろうか。これからの研究課題であるが、一応幾つかの理由が考えられる。第一は、伝統にとらわれないで積極的に伝道し、時代に即した教会形成をしていることである。信徒が生かされて伝道と教会形成に参加し、組織も身分関係としてではなく機能的につくられている。第二は、指樽者や牧師が若いためにエネルギッシュで、若い世代をよくとらえて訓練していることである。信徒のお世語をする牧会ではなく、信徒が活躍する牧会を行なっている。第三は、学生・放送・文書等の各種伝道団体の働きとよく協カし、それを牧会の中に巧みに活用していることである。日本の福音派は各種伝道団体には恵まれており、それらと健全に協力している教会は祝福されている。第四は、最も大きな理由であるが、海外宣教に熱心であることである。海外宣教によって視野は拡大され、教会に大きな祝福をもたらしている。このようにして、戦後誕生して長いあいだ伸び悩んでいた諸教団が、この十年間に平均して二倍から三倍に発展している。
教会成長論がさかんに研究され、多くの方策が発表されている。しかし、それらはしばしぱ外国の直輸人であったり、教会観があいまいであったり、現象的な数字にとらわれて本質を見失う似向があった。そのために、かえって教会の中に混乱を生じ、健全な成長の妨げとなることもあった。しかし、最近はそれらに対する反省がなされ、聖書的でしかも明確な教会観に基づいた教会成長論が多く紹介されるようになってきた。究極的には、教会を構成している信徒の健全な霊的・教会的・社会的成長なくして真実の教会成長はない、と言うことができよう。
三 新しい連帯を求めて
日本の福音派は、国内における交わりと協力の場を育てると共に、多くの宣教師を世界に送り出し、また国際的交流を深めてきたのである。
a 日本伝道会議と世界宣教国際会議
一九七四年には、二つの重要な伝道会議が開かれた。一つは、六月三日から七日まで京都会館において開かれた伝道会議であり、全国から千三百人の代表者が集まり、熱心に討議と発表と交わりの時を持った。安藤仲市師が委員長、尾山令仁師とV・ストローム師が副委員長、羽鳥明師が総務局長であった。安藤師の開会礼拝説教、泉田師の主題講演、J・ストット師の聖書講解、宇田進、舟喜信、J.ストット、長島幸雄の諸師の発題講演のほか、有賀喜一師と鈴木一郎師の説教、宣教大会における羽鳥師のメッセージ、伝道大会における本田弘慈師の説教があった。
しかし、それらにまして意味があったのは、一般分科会と専門分科会における討議であって、伝道会議参加者全員がその討議に参加し、連日にわたって話し合いが行なわれた。この日本伝道会議における講演や討議はすべて『日本をキリストへ』および『分科会報告』(全十三冊)として出版され、貴重な資料となっている。
もう一つは、七月十六日から二十五日までスイスの口ーザンヌにおいて開かれた世界宣教国際会議(インターナショナル・コングレス・オン・ワールド・エバンゼリゼイション)である。日本からも五十三名の代表が参加した。世界から約四千人の参加者があり、特にアジア・アフリカからの参加者の発言と活躍が目立った。アメリカやヨーロッパのキリスト者は隠れて仕える姿勢を示し、共に世界の福音化のために考え合った。
この会議の終わりに「ローザンヌ誓約」が発表され、それに賛成する者が署名し、世界宣教への誓いを表わした。その誓約に、J・ストットの解釈と注釈がつけられ、日本でも翻訳されて『ローザンヌ誓約』として出版された。それは歴史的にも社会的にも広がりをもった現代の信仰告白の一つであり、継続的に学習して行く価値のあるものである。
一九七八年十一月にはそのアジア版と圭言うべき「アジア指導者会議」がシンガポールにおいて行なわれようとしており、一九八○年には第二回国際会議がシンガポールかナイロビで開かれる予定である。
b 海外宣教
日本の福音派は数的には決して大きなグループではないが、多くの宣教師をアジア、アフリカ、南米等の諸国に送り出してきた。
現在約百名近い宣教師が送り出されているが、大きく三つに分けることができるようである。第一は、ヴィジョンに燃えた宣教師が現われ、その後援会がつくられ、海外に出て行ったケースである。初期の頃にはそのような例が多かったし、そのような宣教師によって日本の教会は海外宣教のヴィジョンを与えられたとも言えよう。第二は、宣教会によって派遺されている宣教師たちである。後援会的であったものが自主性のある宣教会となったり、特別の目的をもった宣教会が設立され、複数の宣教師を主体性をもって派遣するようになってきた。第三は、教団によって派遣されている宣教師たちである。現在、イムマヌエル、アッセンブリー、改革派、同盟基督教団等のように、宣教師を各地に送り出している教団がふえ始めている。これら宣教会の幾つかが交わりをもち、海外宣教連絡協力会(ジャパン・オーバーシーズ・ミッションズ・アソシエイション)をつくり、連絡と交流の働きを進めている。
最近、海外宣教のあり方をめぐって、多くの反省と論議が行なわれている。宣教師と宣教会の関係、派遣する日本の教会と宣教地の現実の問題、教派的であることと超教派的であることの問題等が、現実の問題となってきたようである。それらは宣教師を送り出して十年以上経過し、しかも百名近い宣教師が送り出されれば当然起こってくる問題であり、すでに先輩として日本において活躍している多くの宣教師や宣教団の経験に耳を傾けながら、建徳的に論議して行くことがたいせつであろう。
これからの世界宣教は宣教師を派遣し合うと共に、教団レベルまた超教派的な次元で交流を深め、協力関係を育てて行くことも必要であろう。日本の教会は、キリストのからだである世界の教会の一部であることを自覚し、世界的な視野に立って宣教に励んで行くべき時代を迎えている。
C 宣教団体との協カ
日本の福音的な教会が経済的に自立し地域に根をおろしながら成長して行くにつれ、宣教団や各種伝道団体との協力関係も新しい時代を迎えようとしている。宣教師や宣教団によって育てられた教会や教団も自立し成長するにつれ、強いリーダーシップを発揮するようになった。それは成長の自然な結果であって喜ばしいことであるが、それだけにこれまで努力してきた宣教師や宣教団に対する配慮も必要である。宣教師が賜物を十分に発揮して働くことのできる場と協力関係を備え、共に満足できるあり方を育てていかなければならない。最近は円高の問題もあって、経済的にも困難に直面している宣教師や宣教団も少なくない。日本の教会は、霊的にも経済的にも成長するにつれ、経済面における配慮も必要となってきている。
各種伝道団体は、国際的な働きの一部として日本に設立されたものもあるが、日本において創設されたものも少なくない。現在、それら各種伝道団体は、日本にある教会との協力関係と経済的基盤の確立を迫られているようであるが、教会に基礎を置き、教会を側面から助けるあり方を育てることが最も策要である。教会を離れた各種伝道団体の存在と働きはあり得なくなるであろう。
日本のキリスト教の混乱期は、このように見てくると混乱の中に新しい時代に向かうあり方と秩序が育ちつつある時でもある。福音の霊的本質が正しく評価され、教会を基本とした宣教のあり方が確立しつつあり、それこそ健全な姿である、と言うことができよう。日本福音同盟は、そのような時代の中にあって、聖書信仰による一致を育て、交わりの輪を広げ、進路を誤ることなく示し続けていく責任がある。
最近10年の信徒増加率
教団名 1968年 1978年 増加率
NCC系諸団体 @日本バプテスト連盟 19,470 24,606 26%
A福音ルーテル 15,077 17,668 17%
B聖公会 47,746 54,178 13%
C日本基督教会 11,820 12,925 0.02%
D日本基督教団 198,431 188,735 -0.05%
福音派50教会以上の教団 @日本基督改革派教会 4,300 6,566 53%
A日本ナザレン教団 3,829 5,790 51%
B日本ホーリネス教団 4,982 7,060 42%
C日本アッセンブリー教団 4,668 6,099 31%
Dイムマヌエル教団 7,497 9,442 26%
福音派50教会以下の教団 @日本福音自由教会 341 1,075 214%
A日本バプテスト教会連合 335 875 161%
B日本ユナイト・ペンテコステ教団 300 750 150%
C日本ペンテコステ教団 230 529 130%
D国際フォースクェア福音教団 193 402 108%
異端的教団 @ものみの塔 3,884 41,695 973%
A世界基督教統一神霊協会 40,000 260,000 550%
B原始福音(神の幕屋) 14,000 50,000 257%
Cモルモン教 8,645 29,702 243%
最近10年間の平均成長率は
NCC系は10パーセント
福音的大教派は30パーセント
福音的小教派は150パーセント
異端的諸教団は760パーセントである。
第二部 日本福音同盟
日本福音同盟は、日本の福音的教会の連絡と交流の機関として、多くのキリスト者の祈りと関係者の努力によって生まれたものである。しかし、それはまた、神の摂理によって誕生したものでもある。創立から十年、その足跡をたどってみたい。
T 日本福音同盟の誕生
日本における福音的諸教会は、多様な背景と信仰をもって白由に活動し、それだけに一致と交わりに欠けていた。そのために、他の教団や団体については無理解で、協力もきわめて個人的であって、一致と交わりを求める声は初めから強かった。そのような中にあって、幾つかの連絡や交流の機関が生まれ、あるものは育ち、あるものは消えて行った。それらの中で、やがて日本福音同盟の創立会員となる、日本福音連盟、日本ブロテスタント信仰同盟(JPC)とJEMA(ジャパン・エバンゼリカル・ミッショナリー・アソシエイション)が、超教派的な交わりの機関として育ってきた。
三 創立会員
日本福音同盟の創立会員となった、これら三つの団体の歴史と内容について簡単に触れておき
たい。
a 日本福音連盟
日本福音連盟は、戦後日本基督教団から離脱したきよめ派の諸教団によって、一九五一年(昭和二十六年)七月に創立された。それは、世界福音連盟の「日本にも福音連盟をつくって世界福音連盟に参加してほしい」という要請が一つの契機となったようで、七月二十五日から二十七日まで渋谷教会において創立総会が開かれた。初代理事長には平出慶一師が選ばれ、日本ナザレン教団、日本アライアンス教団、日本イエス・キリスト教団、自由メソヂスト教団、日本同盟基督教団、日本ホーリネス教団等がそれに参加した。
日本福音連盟は、教団を構成単位として連絡と交流および対外的な窓口となることを目的とし、事業としては聖会の開催、『リバイバル聖歌』の発行等を行なってきた。その理事長には、平出慶一師に続いて、車田秋次、喜田川広、宇崎竹三郎、安藤仲市、長島幸雄の諸師が歴任され、現在は池本金三郎師が就任しておられる。
一九六七年(昭和四十二年)の『日本福音連盟時報』の「日本福音連盟の基本線」という巻頭文の中で、車田秋次師は、「日本福音連盟のあり方については、もともと構成諸団体間に幾多、希望やら意見等の相違のあろうことは当然であるが、連盟成立当初からの申し合せの上から考えて見て、連盟自体は伝道の直接活動はそれぞれ所属団体のそれとの混乱を防ぐ為に敢て割愛することに決定しており」と述べておられる。それはその年の秋に予定されていたビリー・グラハム国際大会に協力するための布石のことばであるが、また一九六五年と六六年の第十二回および第十三回総会における新世紀クルセードやアジア福音連合への組織としての参加に対する反対の意思表示でもあったようである。それらに積極的に参加することを推進してきた星野、金田、萩尾の諸師に対し、教団が伝道の主体と考える多くの指導者たちから異論が出て、一九六七年五月に行なわれた第十四回総会において指導者陣が一新し、宇崎師が理事長、副理事長に中島師と安藤師、常務理事に山崎師、会計に北村師と畑野師が選ばれている。
星野師たちは、一九六八年一月に、日本福音連盟とまぎらわしい「アジア福音連合日本福音聯盟」を設立した。しかし、日本福音連盟は続けてその事業を行ない、一九六七年にはビリー・グラハム国際大会に協力し、一九六八年には日本福音同盟を生み出してきたのである。
b 宣教師諸団体
戦後多くの宣教師や宣教団が日本において宣教活動を始めたが、その連絡交流の機関として最
初に生まれたのが、EMAJ(ジ・エバンゼリカル・ミッシヨンズ・アソシエイション・オブ・ジャパン)である。一九四七年十月二十四日に設立総会を開き、初代会長にW・A・エツケル師が選ばれた。その目的と事業については多くの論議が重ねられたようで、一九五二年二月の委員会において、EMAJは日本の福音的な宣教師の宣教のための交わりであることが確認されている。主要な事業として、毎年夏には軽井沢で修養会を開き、『ジャパン・ハーベスト』を発行し、『宣教師年鑑』を出版してきた。
第二に誕生したのがJBCC(ジャパン・バイブル・クリスチャン・カンスル)で、一九五一年頃設立された。聖書主義に固く立っ長老系や単立の宣教師によって構成され、モダ二ズムや偶像礼拝との妥協を激しく攻撃してきた。他の福音派の宣教師や教会に対する批判は、しぱしば緊張関係を生み、一九六〇年代の半ばになるとその実質的な活動はあまり見られなくなった。
第三に誕生したのがJCEM(ジャパン・カンスル・才ブ・エバンゼリカル・ミッションズ)で、EMAJがどちらかというと宣教師個人の交わりの組織であったのに対し、JCEMは宣教団単位の組織であった。一九六一年五月に設立総会を開き、初代会長にヘッセグレブ師が選ぱれた。諸種の講演会、災害時の救済活動、日本語学校、チャーター便の確保等の事業を行なってきた。
宣教師のための交わりと協力の組織がこのように多くあることは不自然であるという声は、早くからあったようで、一九六二年末を目標に合同の話が持ち上がった。多くの話し合いと努力が続けられたが、一九六八年まで合同は実現しなかった。一九六八年二月二十八目、JCEMは総会を開いてEMAJとの合同を決議し、その日に両者は合同して新しい組織であるJEMA(ジャパン・エバンゼリカル・ミッショナリー・アソシエイション)が誕生したのである。最初の会長にはマックガーヴィ師、副会長にアーチャー師、書記にリキンズ師、会計にソーリー師が選ばれた。
JEMAは二つの組織の事業を継承し、軽井沢のカンファランス、『ジャパン・ハーベスト』『宣教師年鑑』の発行、日本語学校、救済活動等を積極的に行ない、また日本福音同盟誕生に大きく貢献したのである。
C 日本プロテスタント聖書信仰同盟
一九五九年は、日本にプロテスタントの宣教が始められて百年目であり、福音派の諸団体が協力して「宣教百年記念聖書信仰運動」が全国的に展開された。オズワルド・スミス、エドワード・ヤング、ロジャー・二コル等の牧師や神学者が招かれ、全国各地で集会が行なわれた。
その運動が終わった十一月、熱海において中央委員会が開かれ、継続的な交わりの組織をつくることが決議された。そのようにして翌一九六〇年二月に誕生したのが日本プロテスタント聖書信仰同盟(ジャパン・プロテスタント・カンファランス)で、通称JPCと言われるものである。目的は大きく三つあり、@聖書信仰に立つ教職と信徒の交わり、A聖書信仰の啓蒙と徹底、B当面する問題の解決に一致して努力する、ことであった。実行委員長に常葉隆興師、副委員長に蔦田二雄師、書記に蔦田師とW・A・マキルエン師、会計に安藤仲市師とJ・シュワーブ師が選ばれた。そのほか各種委員会が設置された。
一九六〇年には機関誌『聖書信仰』が発刊され、全国に地区委員会が設けられた。特別委員会には聖書翻訳、聖書信仰啓蒙、神宮対策、信徒等があった。一九六三年頃には泉田昭師が会計に村瀬俊夫師が編集に当るようになり、次第に若い世代も実行委員会に加わるようになった。それから、『現代と聖書信仰』『なぜ聖書信仰が必要か』『聖書信仰と日本の精神風土』『対話の中の聖書信仰』『聖書とともに』『聖書と宣教』『新しい時代をひらく信仰』等が相次いで出版されてきた。さらに、新改訳聖書の翻訳と出版、日本福音主義神学会の誕生にも大いに貢献した。
一九七一年に蔦田委員長が急逝し、常葉師の委員長代行を経て尾山令仁師がそのあとを継いで委員長となり、全国的にセミナーや大会を行ない、靖国神社問題に取り組み、日本福音同盟の誕生に寄与してきた。当初数百名であった会員も現在五千人を超え、北海道から沖縄まで九つの地区に分かれて活動を行なっている。
二 五者会談から誕生まで
このように超教派的な連絡と交流の機関が育ちながら、なお日本の福音派を全体として代表す
るものはなかった。そこで、五つの団体の話し合いが始まったのである。
a 初期の懇談会
最初の懇談会は、一九六四年一月二十日、東京の山王ホテルにおいて行なわれた。日本福音連盟から車田、喜田川、北村、星野、金田、大江の諸師が、JPCから常葉、蔦田、泉田、堀川、松尾、マカルピン、シュワーブの諸師が、三宣教師団体からはフリーゼン、レィノルズ、リーズナー、アーチャー、ソーリー、フォックウェルの諸師が出席した。まずそれぞれの団体の背景、目的、事業が紹介され、これからの目標と手順が話し合われた。第二回懇談会は五月三十日、お茶の水学生キリスト教会館において行なわれ、各団体から三名ずつの代表が出て話し合った。JCEMのR・フリーゼン師が、冒頭に三つの内容をもつステートメントを発表した。それらは、@われわれはキリストにある交わりを必要としている、Aそれは宣教の大命令を遂行するためである、B国の内外にわける反福音的な運動に一致して反対するためである、の三点であった。EMAJのA・レィノルズ師とJBCCのJ・ヤング師はそれに直ちに賛成し、特にWCC-NCCに対応できる福音派の組織の必要性を強調した。福音連盟の星野師は、交わりは必要であるが、そのような組織をつくることには反対であると述べた。JPCの堀川師は、聖書信仰に立った組織を五者でつくることを望むが現状では困難であるので、まず交わりを育てるべきであると強調した・そこでどの程度の交わりと組織をっくるべきであるかに論議が集中し、その結果、三つのステッブを踏みながら徐々に組織化するのがよいということになった。すなわち、@現在の五団体で連絡と交わりを緊密にする。A「日本福音主義団体連絡責会」のようなものをつくり、連絡と協力の事業を行なう。B福音同盟をつくり、五つの団体はその傘下にはいる。これら三つのステップを経て、やがて将来は完全に一つになるようにする。一応そのような合意に達し、それぞれの団体に持ち帰ってよく検討し、さらに語し合いをすることになり、JCEMが連絡と世語役をつとめることになった。
第三同懇談会は十一月に開かれ、星野師は大衆伝道に協力してあたるように主張した。それに対して、JPCからは泉田師等が出ていたが、伝道は主として教会や教団において行なうべきであり、いまつくろうとしているものは連絡と交わりのためであるとの意見を述べ、また、日本福音連盟は必ずしも日本の福音派を全体として代表していないので、代表できる窓口とすることが必要であると強調した。そのような意見に基づき、「日本福音主義団体連絡委員会」(ジャパン・エバンゼリカル・グループス・リエゾン・コミッティー)という長い名称の機関をつくることになった。一九六五年五月には各団体から推薦されて五名の草案委員(福音連盟から星野師、JPCから蔦田師、EMAJからアーチャー師、JCEMからベンソン師、JBCCからジョセフ師)が選ばれた。
b 誕生へ大きく前進
前述したとおり、一九六五年から六七年にかけて、日本の福音派の内部に三つの大きな変化と一つの大きな出来事があり、それらが共に働き合って日本福音同盟の誕生に大きく前進したのである。
三つの変化の第一は、日本福音連盟内にわけるリーダーシップの交替である。このことはすでに言及したように、新世紀クルセードやアジア福音連合との組織上の関係、東洋福音会議への参加、また福音連盟の目的やあり方などをめぐって多くの論議があり、星野、金田、荻尾の諸師から宇崎、中島、安藤、山崎、北村、畑野等の諸師にリーダーシップが移った。これらの諸師は、教団を基本にすえた日本宣教のあり方を強調し、さらに他の諸団体の指導者たちへの特別の偏見も感情もなく、福音派の広い交わりの形成に積極的であった。
第二の変化は、JBCCが実質的な働きをしなくなったことである。JBCCは最初は長老系の宣教師が指導していたが、極右的キリスト教の闘士であるマッカンタイヤーの影響が強くなり、ケ二ー・ジョセフ師が活躍するようになった。その結果、福音派の交わりでもやや異質的なものとなり、五団体の話し合いから離れていった。
第三の変化は、JCEMとEMAJの合同である。これもすでに言及したことであるが、一九六八年二月二十八日に、JCEMとEMAJが合同し、JEMAが誕生した。そのことによって、五者の語し合いが三者になっただけではなく、日本福音連盟とJPCの両方に良い模範となり、大きな刺激となった。
これら三つの変化に加え、一九六八年秋にはビリー・グラハム国際大会が日本武道館等において行なわれ、関係者は一つになって協力し伝道に励んだ。この事実と経験は、相互の理解と一致への確信を与え、日本福音同盟誕生へ向かって大きく前進する力となった。
C 日本福昔同盟の誕生
日本福音主義団体連絡委員会としてしばらく運営されていたものが、一九六七年になるとさらに進んだ交わりをつくるべきであるという気運が盛り上がり、「日本福音連合」(仮称)結成の話が具体的になった。一九六八年二月には懇談協議会が麹町会館において開かれ、蔦田師の経過報告のあと、起草委員の一人である羽鳥明師がその内容の説明をした。
第一回設立準備委員会は、三月八日お茶の水学生キリスト教会館において開かれ、四月二十九日に「日本福音同盟」の設立総会と結成大会を行なうことを決定した。日本福音連盟、JPC、JEMAを創立会員とし、その規約案を承認し、プログラム等を決定したのである。第二回準備委員会は、三月二十二日に開かれ、総会役員、実行委員、協力会員、WEFとの関係等を話し合った。第三同準備委員会は四月十九日に行なわれ、設立総会と大会の最終的な準備をした。
一九六八年四月二十九日午後二時からお茶の水学生キリスト教会館にて、日本福音同盟の記念すべき設立総会が開かれ、常葉隆興師が議長に選ばれ、羽鳥明師が規約案を説明し、多数によって承認された。字崎師が設立の「宣書」を朗読し、アーチャー師が英文の宣青文を読んだ。実行委員には、蔦田、安藤、羽鳥、戸川、北村、山崎、森山、泉田、マガービー、アーチャー、ソーリー、ベンソンの十二名が選ばれた。その中から、実行委員長に蔦田二雄、副委員長に安藤仲市、マガービー、書記に羽鳥明、アーチャー、会計に北村武雄、ソーリーの諸師が選ばれた。
記念大会は共立講堂にて羽鳥師の司会で始められ、宣言文が日本語と英語で発表され、宇崎竹三郎師の挨拶、島村亀鶴、D・ホーク師の祝辞の後、マガービー師と蔦田師が記念講演をした。さらに本田弘慈師が主講演者として熱弁をふるい、@これは神のみこころによること、A聖書信仰に立つものであること、B宣教の前進のためであること、の三点が強調された。この創立大会には、千数百名の参加者があり、日本福音同盟は記念すべき第一歩を踏み出したのである。
U 日本伝道会議に向かって
日本福音同盟は、幾多の困難と試練を経ながらも比較的順調に発展し、日本の福音派の一致のために大きく貢献してきた。日本福音同盟十年の歩みにおいて、一九七四年六月に行なわれた日本伝道会議は最も画期的な行事であった、と言うことができよう。その日本伝道会議を一つの区切りとして、日本福音同盟の歩みをまとめてみたい。
一 相互理解の推進
誕生したばかりの日本福音同盟の課題は、それを構成している三創立会員間の相互理解の推進であった。
a 交わりの確立
日本福音同盟は、その第一回実行委員会を五月二十四日に開き、運営の基本方針、創立会員間の交わりの確立、WEF、ローザンヌ国際会議等の議題を話し合った。『聖書信仰』一九六八年七月号で、常葉師は次のように述べている。「われらはここに聖書信仰に立つ三つの団体が従来よりも更に一層の緊密な関係に入り、構成団体の特殊性を生かしつつ、相互問の友好親睦を増し、教会の内外に起こる諸問題について協議することを、主なる目的として、このような同盟の生れたことを心から喜ぶものである。」JEAの誕生によって、それまで個人加盟を基本としていたJPCに団体として加盟する希望が続出し、規約を改正している。逆に団体加盟を原則としている福音連盟に教会または個人で加盟を希望する者が現われるようになった。このようにして、相互理解は徐々にではあるが進み、交わりも広がって行った。
第二回総会と大会は、一九六九年三月三日から五日まで、麹町会館において行なわれた。六十名の代議員と二十名のオブザーバーが出席し、活動報告と決算報告が承認され、新年度の事業計画や予算が審議された。人事面ではあまり変化はなかった。夜は大会として一般に開放され、三日は榊原康夫師が「まことの預言者」と題して旧約から講解し、蔦田二雄師が「聖書信仰とJEAの使命」と題して一般講演をした。四日は、車田秋次師が「牧会老パウロの祈り」羽鳥明師が「二十一世紀に向かう宣教とJEA」というテーマで講演する予定であったが、春の大雪のために中止となった。JEAの意味が、このようにして関係者だけではなく、一般に理解されるようにという努力が、このようにして続けられたのである。
一九六九年は、JPC創立十周年であり、創立者の一人であるW・A・マキルエン博士をアメリカから招いて、全国八ヶ所で大会が開かれた。
b 摂理のうちに
第三回総会は、一九七〇年九月、市ヶ谷の私学会館において開かれた。この年は、日本基督教団において造反運動が起こり始め、バプテスト世界大会が武道館において開催され、日本のキリスト教界は騒然としてきた。しかし、福音派における一致と協調の精神は育ち、総会は終始なごやかな雰囲気のうちに進められた。蔦田師が実行委員長に再任され、常葉隆興師が議長に選ばれた。『聖書信仰』一九七〇年十二月号において、蔦田師は「JEAは四年余の久しきにわたる数次の集団間における面倒な協議や祈りの結果として、摂理的にその年になって誕生を見たものである」と強調しているが、JEAの関係者はみな等しく神の摂理によって導かれてきたことを確信していた。
第四回総会は、一九七一年五月、麹町会館において開かれ、新実行委員に蔦田、常葉、泉田、羽鳥、尾山、安藤、船越、本郷、長島、池本の諸師とJEMAの代表五名が選ばれた。しかし、七月に蔦田委員長が、突然神のみもとに召された。それは、JEAには大きな試練であった。急遽実行委員会が召集され、安藤仲市師が実行委員長に推され、その働きを続けることになった。JPCは常葉師を委員長代行にして、その働きを進めた。
戦後の福音派、特に日本福音同盟にわける蔦田師の存在と働きは大きかった。それだけに打撃も大きかったが、神の摂理を確信し、その働きの継承と発展に関係者は一致して当たった。
C 宣教懇談会
一九七二年六月十二日から十四目、JEA主催の第一回宣教懇談会が、二百三十名の参加者を得て、伊豆の天城山荘において開かれた。その趣旨は、JEAに加わっている三創立会員の中堅的指導者の交わりを深め、これからの日本宣教のあり方を共に考えることであった。羽鳥明師が「危機に立つ日本の教会」という主題講演をし、十二日の夜は「世界におけるキリスト教と日本の教会」というテーマで、D・ホーク、泉田昭、M・グリフィスの三師が話した。十三日の朝は「日本の教会はなぜ成長しないのか」というテーマで井出定治、堀内顕、矢内昭二、J.マカルピンの講師によるパネルディスカッションが、その夜は「教会成長の実際とその秘訣」と題して堀越暢治師と本田弘慈師が話した。十四日の朝は「教会と宣教師の効果的関係」というテーマで大江捨一、V・ストローム、古山洋右の三師の話があり、安藤委員長が「JEAと日本伝道会について話して、日本伝道会議の基本構想を正式に発表した。それは、一九七三年十月に、東京か関西において千人前後の規模の伝道会議を闘き、日本宣教の諸問題を共に考えるというものであった。最後に常葉隆興師による説教があって、この歴史的な懇談会は終わった。正式記録は『JEA宣教懇談会』として出版された。
この懇談会では多くのグループに分かれて懇談の時が持たれ、相互理解は大きく前進した。お見合い説から結婚説まで飛び出し、なごやかなうちに、三創立会員間の交わりが育った。また、日本伝道会議の礎石が置かれただけでなく、JEAの信仰基準の必要性の是非も大きな課題となってきた。
二 日本伝道会議に向かって
第一回のJEA宣教懇談会において、安藤委員長が日本伝道会議の基本構想を発表されたことによって、日本伝道会議へ向かって、正式に歩み出した。
a 組織的確立
最初は東京において行なうことが考えられていたが、安藤師や羽鳥師が京都の美しい疎水に囲まれた京都会館を視察してすっかり気に入り、幾度か祈りと検討を重ねた上、一九七四年六月三日から七日まで、京都会館において行なうことが決定された。
この伝道会議は、日本福音同盟が主催し、参加する正代議員は三創立会員に加入している者に限ることにした。それは、聖書信仰に固く立ち、福音派の一致を育てるためであった。それ以外の者は、オブザーバーとして参加できる道が備えられた。
車田秋次、沢村五郎、小島伊助、野畑新兵衛、常葉隆興、島村亀鶴、高瀬恒徳、J・マカルピンの講師を顧問に迎え、次のような陣容で実行委員会がつくられた。
実行委員長 安藤伸市
副実行委員長 尾山令仁
〃 V・ストローム
総務局長 羽鳥明
事務局長 有賀喜一
祈祷委員長 本郷善次郎
プログラム委員長 泉田昭
財務委員長 池本金三郎
広報委員長 森山諭
記録委員長 村瀬俊夫
会場委員長 船田武雄
宿泊委員長 高橋久之
渉外委員長 E・ゴスデン
各種委員が多く選ばれ、信徒会も結成され、さらに関東と関西、その他においても協力会がつくられ、組織的な働きが全国的に繰り広げられた。
b プログラム
一九七三年六月には、第五回JEA総会が淀橋教会にて開かれ、伝道会議の目的と日程が正式に承認された。その目的と性格に基づき、プログラムの骨格も次第に具体的になってきた。
テーマは「日本をキリストヘ!」とし、伝道の使信としての「福音」、伝道の拠点としての「教会」、伝道の源泉としての「聖霊」、伝道の方策としての「協力」の四つを基本とし、それらを有機的に結び合わせながら、一般分科会と専門分科会の二つの場で討議しながら、あらゆる角度から展開することにした。つまり、主題講演、聖書講演、発題講演に基づいて一般分科会でさらに具体的に語し合い、専門分科会では専門的な角度から研究するという構想であった。このような構想は、特に連絡して話し合ったわけではないが、七月にローザンヌにおいて行なわれた世界宣教国際会議のそれによく似ていた。
外国からどのような講師を迎えるか、多くの意見が出された。大衆伝道者ビリー・グラハムの名もあがったが、結局すぐれた聖書講解者であるJ・ストットを招くことに決まり、福音-教会-聖霊-協力といった主題の流れと発展にそって「使徒の働き」(使徒行伝)から聖書講解をしていただくことになった。
夜は霊感にあふれた集会とし、音楽とデモンストレィションを活用し、宣教へのチャレンジに満ちた時とすることを考えた。良い意味での祭り的要素も必要であり、それが宣教に結びつくようにと考えられたのである。プログラムとともに、講演者、発表者、説教者の選任は、むずかしい課題であった。
C 祈りによって
日本伝道会議の準備は、まず祈りによって始められた。本郷師が委員長、長島師と今野師が副委員長に就任し、多くの委員が選ばれた。関東と関西に分かれ、各地で祈祷会が開かれた。祈りによってこの働きが始められたことは、大きな祝福と成功の秘訣であった。広報委員会は森山師が中心となり、ポスター、ヂラシ、その他によって精力的に働きを進めた。会場委員会は、京都会館と接渉し、大会場だけではなく分科会その他の会場の確保に努力した。宿泊委員会は、エイジェントを通し、旅館やホテルの確保と交渉に努力した。渉外委員会は主として海外からの講師や参加者の連絡接渉に当たった。この大会には、千数百万円の予算が計上されたが、それはすべて自発的な献金によってまかなわれるのであり、財務委員会は信仰と祈りによってその必要を満たすように努力した。
このように、各委員会は祈りによって、それぞれ最善を尽くしたのであったが、また実行委員会も祈りによって全体の健全な推進のために努力した。信仰的なあり方、協力関係、その他のために、あるときは泊り込みで祈りに打ち込んだ。白熱した論議もあったし、協力関係をめぐる誤解もあった。そのために心が傷つくこともあったし、日本伝道会議開催があやぶまれる時さえあった。しかし、それらすべても、最後は祈りによって乗り越えられたのである。
プログラムの内容を豊かにするために、多くのすぐれた講師が選ばれただけでなく、アンケート調査による研究も進められた。日本伝道会議は、このように祈りによって全体が有機的に推進され、準備が整えられ、その目を迎えることになったのである。
三 日本伝道会議
歴史的な日本伝道会議の日が来た。北海道から沖縄まで全国から、さらに海外からも代議員やオブザーバーが次々と集まってきた。その日の午後には多くの方が受付に集まり、出足はすこぶる好調であった。
a 祝福された講演
日本伝道会議は、開会礼拝をもって始められ、安藤実行委員長が「福音前進のために」という題で説教し、参加者を心から歓迎した。そのあとプログラム委員長の泉田師が主題講演を行ない、「日本をキリストヘ!」というテーマに基づき、伝道会議のテーマを展開しつつ語った。四日から七日まで、J・ストット博士が使徒の働きの講解によりながら、福音宣教のメッセージ、福音宣教の結果-教会の成長、福音宣教の力-聖霊、福音宣教の妨害というテーマで四回にわたって講解講演をした。格調高い博士の講解は、参加者に大きな感銘を与えた。ストツト博士の聖書講解のあと、宇田進師が「今日における救い」舟喜信師が「教会の本質と形成」ストット博士が「聖霊-福音宣教と教会成長のみわざ」長島幸雄師が「新しい時代に向かう教会と協力」という題で、それぞれ発題講演をした。
それらの講演は、主題-聖書-発題という順序でテーマの展開にそいながら発展し、午後に行なわれた一般分科会と専門分科会でさらに具体的に展開されて行った。
四日と五日の夜は、インスピレイション・ナイトであり、音楽と沖縄の舞踊のあと、有賀喜一師と鈴木一郎師が説教をした。六日の夜は宣教大会であり、日本から海外に出ている宣教師の紹介のあと、羽鳥明師が「パウロと福音」という題で講演した。七日の夜は一般に開放され、大ホールに会場を移して伝道大会が行なわれた。音楽の特別番組、すぐれた証詞のあと本田弘慈師が立ってメッセージを語り、多くの人々が救いにあずかった。これらの講演は、『日本をキリストヘ』という講演集に全文収録され、出版された。
b 充実した分科会
日本伝道会議の大きな特色は、分科会における交わりと討議にあった、と言うことができよう。極論する者は、会議のあとの宿舎における交わりと話し合いが最も充実した伝道会議であったとさえ言う。さて、分科会は一般分科会と専門分科会に分けて行なわれた。
一般分科会は午前中講演されたテーマに基づいて行なわれ、第一部は「聖書解釈とメッセージ」「現代における福音理解の混乱」「異教と異端」、第二部は「教会と国家」「現代青年と福音」「家族制度と証し」、第三部は「教会形成における聖書のパターン」「教会形成における牧師と信徒」「日本の教会の現状とその課題」、策四部は「教会の組織と運営」「信徒による伝道と教会形成」「信仰生活確立の教育」、第五部は「歴史における聖霊の働き」「現代における聖霊の働き」「聖霊と祈り」、第六部は「地域社会に浸透する伝道」「都市伝道と教会形成」「地方伝道と教会形成」、第七部は「これからの協力」「教会と伝道団体」「宣教師団と日本の教会」であった。やや総花的なきらいもあるが、策一回の伝道会議としては妥当な内容であろう。
専門分科会は、「神学教育と教会」「文書伝道と教会」「中高生伝道と教会」「学生伝道と教会」「音楽伝道と教会」「キャンプ伝道と教会」「放送伝道と教会」「視聴覚伝道と教会」「海外宣教と教会」「大衆伝道と教会」「職域伝道と教会」「農村伝道と教会」というテーマで、それぞれの専門別に話し合いが続けられた。この特色は二つあり、第一は教会との関係において考えられたこと、第二は専門の働きに携わる者が四日問充分に話し合うことのできたことであうつ。事実、こ
れを機会に理解が深まり、協力関係が育った例もある。
C 伝道会議の評価と反省
日本伝道会議は、最終日の七日に「京都宣言」と「声明」を出し、五日間にわたる会議の幕をおろした。その評価は、歴史の中で第三者によって行なわれるべきものであり、これからを待たなければならないであろう。しかし、その会議について、その直後出された『聖書信仰』七-八月号において、松田輝一師は次のように述べている。「戦後特に教派が無数に存在し、同じ日本で一つ聖書信仰に立つ同労者でありながら、幹部以外にはその交わりが薄くバラバラである時、全国から一堂に会してみ名を崇め、自由な会話が出来、その賜物や経験を頒ち合って、じかに聖書信仰を確かめ得たこと、この激動混乱の時代に対して、あの京都宣言を打ち出し、神の召しに答えて立ち上がったことは、大切な収穫である。又聖書信仰の原点に立ち、謙虚に他に聞き己を見直すことも出来たであろう。殊に講演分科会記録等が文書に残るのであるから、この大会は各教会への挑戦となり、いかに受けとめるか興味のあるところ、又大いに期待するところである。」
確かに、混乱する日本のキリスト教界の中にあって、福音派の諸教会は大きな祝福を受け、質量共に発展している。しかし、@伝道会議の内容が総花的・表面的に終わったこと、A二、三の発表について批判のあったこと、B京都宣言の内容がローザンヌ誓約のそれに比べて研究の余地のあったこと等は、謙虚に反省しなければならないであろう。また、その会議の成果がそれからの宣教と教会形成と協力にどのように生かされてきたかは、第二回日本伝道会議の大きな課題であろう。伝道会議は単なるお祭りではなく、その成果が現実に生かされ、歴史の中で積み重ねられていくところにこそ意義があるからである。
四 新しい時代に向かって
日本福音同盟は、歴史的な日本伝道会議を終え、新しい時代に向かってさらに前進を続けた。それから四年、日本の福音派は静かな月日を過ごしてきたが、その静かな歩みの中にも大きな変化のきざしを見ることができよう。
一 世界に目を向けて
日本伝道会議が終わった次の月(七月)には、ローザンヌにおいて世界宣教国際会議が開かれ、日本福音同盟の関係者も多く出席した。WEFとの関係も大きな課題であり、日本の教会による海外宣教も新しい時代を迎えようとしている。
a 世界宣教国際会議
七月十六目から二十五目までローザンヌの国際会議は、三千七百人の参加者を得て行なわれた。日本からは宣教師を含めて五十三名が参加し、安藤師が団長であった。
午前中は聖書講解、宣教方策の原則と実際等の一般講演があり、午後は多くの分科会に分かれて討議が繰り広げられ、夜は全体集会であった。国別の分科会もあり、日本からの参加者たちも幾度か集まって日本の宣教および世界宣教に対する日本の教会の貢献について話し合った。ただ、参加者が日本の教会の正式な代表者ではないので、それが必ずしも日本の教会の公式な見解となり得ない点に悩みもあった。
会議においては、アジア・アフリカからの参加者の発言と活躍が目立ち、アメリカやヨーロッパの参加者は控え目にふるまった。それは、アジァ・アフリカのキリスト者の問題意識が鋭くなり、また宣教の伸展がいちじるしい結果であろう。しかし、それはまたアメリカやヨーロッパのキリスト者が謙遜であり、大人としてふるまったことをも意味している。また、この会議においては、超教派的伝道団体の関係者の発言が目立ったが、教会とそれら伝道団体との協力関係も大きな課題である。この二つの問題は、世界的な問題であるとともに、日本の教会の課題でもあるように思われた。
会議の終わりに「ローザンヌ」誓約が発表され、賛成する者たちはそれに署名し、その誓約の実行に参与することを表明した。その誓約の内容は社会的にも歴史的にも広がりをもったものであり、これからの福音派のあり方に大きな光を投じるものであった。
このように、ローザンヌにおいて開かれた国際会議は、日本の福音的教会のあり方にも多くの課題と光を与えた、と言うことができよう。
b 第二回宣教懇談会
日本伝道会議を終え、ローザンヌの国際会議を経験し、それらをふまえて第二回宣教懇談会を開いた。十月二十一日から二十三目の三日問、伊豆の天城山荘に三創立会員から八十数名の代表が集まり、泉田、長島、尾山、有賀の四師が発題講演をし、十のグループに分かれて熱心に話し合った。
日本伝道会議の評価は積極的なものが多く、「日本伝道会議を通してJEA三創立会員の結婚が確認されたので、これから真剣に新しい生活設計に取り組まなければならない」とか、「もはやJEAは後戻りできない。何もしない団体でいることはできない。何かをしなければならない。そのために三創立会員が交わる機会を多くし、さらに相互理解を深めることが必要だ」と言った意見が多く出された。
しかし、そのことはJEAが教団をさしおいて伝道活動に乗り出すことではなく、また各地方においてミ二伝道会議を開くことにも慎重であった。JEAの交わりの拡大については、「三創立会員の枠をくずさずに、三創立会員の加入を通して広く参加を呼びかけるべきである」という意見が圧倒的であった。また、聖書信仰に基づいて教会論と宣教論を明確にする努力が必要であると強調された。「京都宣言」のコメンタリーを出すべきであるとの要望も出された。一九七四年は二つの大きな伝道会議を経験し、ややもすると浮足立つ危険もあったが、この宣教懇談会においては積極的な中にも堅実な意見が多く、それが以後のJEAや福音派の歩みを健全なものとしたと言えよう。
一九七五年二月に行なわれたJPC第十六回総会は、早速この懇談会の意見を汲んで、「今日における聖書論」「今日における教会論」「今目における宣教論」を取り上げ、矢内昭二、佐布正義、泉田昭の三師が講演し、それらは『聖書と宣教』に収録されている。
c WEF加盟問題
日本福音同盟(JEA)誕生のきっかけの一つに世界福音同盟(WEF)の働きかけがあったことは、否定することのできない事実である。JEAは、誕生以来このWEF加盟を大きな課題とし、またWEFからも加盟してほしいと幾度か要請されてきた。JEAは、実行委員会においても、また三創立会員においてもこの問題を討議し続けてきた。しかし、加盟に対してはつねに慎重であった。それには幾つかの理由がある。第一は、WEFについてよくわからないということである。ローザンヌ会議のあとWEFの総会があり、羽鳥師にオブザーバーとして出席していただき、その報告を聞いた。またWEFから文書が送られ、翻訳して創立会員に配布された。WEFの事務局長のスコット師が来日したとき、交わりの機会をもった。第二は、ローザンヌ継続委員会との関係で、WEFは必ずしも世界の福音派を充分に代表していないのではないかという問題である。節三は、JEAの創立会員であるJEMAに加盟している宣教団の意見が充分に調整されていないことである。
これらの問題は充分に時間をかけて慎重に話し合いながら解決していかなければならないが、日本の福音派が世界の福音派とどのように交流し協力していくのか、積極的に考えなければならない課題である。JEAにとっても重要な問題であると言わなければならない。
二 態勢を整えて
日本福音同盟は、WEFの問題だけではなく、第二回日本伝道会議、救済活動等多くの課題をかかえ、信仰的にも交わりと協力の面においても、今一度態勢を整えなければならない時代を迎えている。
a 第六回総会
JEAの第六回総会は、一九七五年六月九目から十日の両日、お茶の水学生キリスト教会館において行なわれた。その総会に提案された事業計画は、JEAの拡大と充実、宣教研究所、JEA地方大会、JEA信仰箇条の明文化、救済委員会の設置、WEF加盟等を内容としていた。この総会には新しい代議員も多く参加し、そのためにこれまでの経過を繰り返し説明する必要があり、また、あらゆる問題をその根源にまで遡って問い直す論議が多かった。その結果、すべてに慎重であった。
JEAの交わりの拡大については、第二回宣教懇談会の意見のように三創立会員加入を通しての拡大が確認された。宣教研究所の設置は、研究調査委員会の設置にとどめることになり、JEAの地方大会は見送ることになった。JEA信仰箇条は、その必要性を含めて三創立会員で検討することになった。救済委員会の設置は承認され、基金をつくることになった。WEF加盟については、さらに多くの資料を集めて研究することになった。
新実行委員が、二創立会員の推薦に基ついて選はれたが、今野孝蔵、三森春生、岡村又男師等が加わり、若返り現象がみられた。実行委員長には安藤仲市師が再選され、引き続き指導に当たられることになった。
夜は一般集会で、田村幸三師と村瀬俊夫師が講演、安藤仲市師と大橋武雄師が立証、世田谷中央教会と練馬バプテスト教会の聖歌隊が賛美で奉仕した。
b 信仰基準の問題
JEAがその交わりを進めていくとき、JEAの信仰基準が必要であるか否かについては、早くから論議があった。一九七二年に開かれた第一回宣教懇談会において、福音連盟からの参加者の一人は「交わりを発展させるためには、信仰基準がないと不安である」と問題を提起した。それ以来、信仰箇条または信仰基準の問題が常に論じられてきた。
第六同総会においても、それは重要な問題の一つで、多くの面から論じられた。「JEAが信仰基準をもつことは、教会または教団のようになってしまうのではないか」「三創立会員がそれぞれ信仰基準をもち、それを列記すれば良いのではないか」といった意見が多かった。また「JEAは、聖書論、教会論、宣教論等でコンセンサスを育てるのがよいのではないか」といった意見も強かった。
JPCは、「聖書は誤りのない神のことばである」という信仰告白に基づいて、交わりと働きを進めてきた。しかし、多くの教会や団体が加盟するようになり、地方における働きが発展するにつれ、さらに詳しい信仰基準が必要であるという声が高まり、信仰基準を作成することになった。小委員会と実行委員で検討が続けられ、一九七六年一月の総会において決定された(「参考資料」の中の「JPC信仰基準」)。
c JEA全国大会
一九七六年六月七、八日、日本福音同盟は市ヶ谷ルーテルセンターにて、全国大会を開催した。三創立会員および各種伝道団体のリーダー約九十名が集まった。京都宣言とローザンヌ誓約の学習、それに日本の福音派の教会のあり方を考えるのが主目的で、まず古山洋右師が「京都宣言とローザンヌ誓約」について講演し、世界のキリスト教百年の潮流から説き起こし、日本伝道会議と世界宣教国際会議の位置づけをし、更に京都宣言とローザンヌ誓約の比較検討をした。
シンポジウムでは、まず聖書論が取り上げられ、小林和夫師、矢内昭二師、ヘンリー綾部師がそれぞれ発表し、特に矢内師は今日の聖書学との関係において論じた。教会論は岡村又男、田辺正隆、H・スコーグランドの諸師が発表し、特にスコーグランド師は、聖書-教会-宣教の位置づけの中で考える必要性を強調した。八目には宣教論が取り上げられ、増田誉雄、松村悦夫、N・ブラウ二ングの諸師が発表し、信徒の成長による教会の成長が強調された。総括すると聖書論では歴史的研究との関係が問題となり、教会論ではその重要性が本質と実践の両面から見直され、宣教論では信徒の役割が強調されるようになってきた、と言えるであろう。
午後は、芳賀正師が「救済委員会一の報告と提案を、三森春生師が「宣教研究調査委員会」、藤家栄一師が「第二回日本伝道会議準備委員会」の報告と提案をされ、それぞれ承認された。最後に羽鳥師の司会でまとめをし、大会は終わった。
三 新しい時代に向かって
日本福音同盟は、連絡・交流・協力の機関であって、直接伝道活動をするわけではない。それだけに、多くの努力と忍耐を必要とする。
a 第七回総会
第七回総会は、一九七七年六月六目から八目にかけて、世田谷中央教会において行なわれた。約七十名の代議員とオブザーバーが出席した。尾山師が議長に選ばれ、岡村師により事業報告が、三森師により会計報告が行なわれ、それぞれ承認された。実行委員の選出が創立会員の推薦に基づいて行なわれ、安藤仲市、船田武雄、池本金三郎、江副喜介、岡村又男、尾山令仁、羽鳥明、泉田昭、今野孝蔵、三森春生、H・ジョンソン、A・クンツ、V・ストローム、R・フリーゼン、H・スコーグランドの十五師が選ばれ、互選により安藤師が実行委員長になった。制度が変更になり、羽鳥明、岡村又男、泉田昭、H・スコーグランドの四師が総務として実務を担うことになった。
泉田師が新年度の事業計画を説明し、五つの分団に分かれて討議した。@JEAの拡充はこれまでのように三創立会員の加入を通して行ない、新しい創立会員は設けない、AWEFの加盟はJEMAの事情を考え慎重にする、B信仰基準はその必要性の検討を含めて研究を続ける、C各委員会の働きを推進する、DJEAの地方大会は創立会員の働き以外には行なわない、等のことが決められた。また、E第二回伝道会議は一九八○年か八一年に開催する、F一九七八年には十周年記念大会と記念誌を発行することも決められた。
夜は一般に開放された聖会であり、長島幸雄師と泉田昭師がメッセージをした。
b 創立十周年を迎えて
日本福音同盟は、一九六八年四月二十九日に創立されたので、一九七八年は創立十周年の記念すべき年である。それを記念して、JEAは二つの事業を準備中である。一つは記念大会で、六月五日と六日の両日、淀橋教会において行なわれる。五日の午後は開会礼拝と記念晩餐会で、安藤委員長の説教のあと、羽鳥師の司会で各方面の来賓と指導者二百名が出席して記念の交わりの時がもたれる。六時半からの講演会では尾山師が講演することになっている。六日の朝は、泉田師が「JEAの反省と展望」と題して講演し、午後は大山勝、高野鷹信、R・リーズナー諸師による「信徒による宣教と教会形成」と題するパネルディスカッションが行なわれ、夜の講演会で宇崎竹三郎師がメッセージをすることになっている。
もう一つは記念誌の発行で、戦後日本の福音派の歴史をまとめ、日本福音同盟の足跡をたどり、これからの課題を共に考える内容のものとする(それが本書である)。
JEAは創立十周年を迎え、これまでの摂理と恵みに感謝するとともに、これからの使命に向かって前進しようとしている。
C 新しい時代に向かって
日本福音同盟は、健全な交わりと協力によって、日本の福音的諸教会に大きな祝福をもたらした。激しい混乱の時代にあって、日本の福音派は一致を保ち、教会は成長し発展してきた。これからは、日本においても福音派が主流となっていくことであろう。それだけに、日本福音同盟の使命と責任は大きい。国際的にも国内的にも、聖書信仰に立ってキリストにある一致と協力を育て、福音の前進のために努カしていかなけれぱならない。
一九七八年十一月には、シンガポールにおいてアジア指導者会議が開かれ、JEA関係から二十名の代表が参加しようとしている。アジアの諸教会との交流と協力は、日本の教会に課された使命であり、その会議はその第一歩となるであろう。
一九八○年一月には、五百人程度の規模で世界教会指導者会議が開かれる。この三月二十日には、その事務局長であるハワード師とJEAの代表が懇談の時を過した。
一九八○年か八一年には、第二回日本伝道会議が開かれる。その準備委員会がすでに発足し、準備にかかっている。第一回日本伝道会議が日本の福音的諸教会の祝福の初めであったとするならば、第二回伝道会議は日本の福音派が大きく飛躍する機会となってほしいものである。
戦後日本の福音派の年表(一九四五-七八年)
一九四五年(昭和二十年) 日本の敗戦 米国聖書協会より二百五十万冊の聖書贈呈 米国の教会代表来日
一九四六年(昭和二十一年) 日本基督改革派教会、日本基督教団より離脱した人々によって創立 イムマヌエル綜合伝道団創立 基督兄弟団創立 宣教師の来日はじまる。
一九四七年(昭和二十二年) 福音伝道教団、日本ナザレン教団、日本基督教団より離脱して再建 EMAJ設立、エッケル師会長多くの宣教師来日
一九四八年(昭和二十三年) 日本同盟基督教団設立学生伝道がさかんにはじめられる。
一九四九年(昭和二十四年) 日本ホーリネス教団、日本アライアンス教団、日本アッセンブリー教団再建
一九五〇年(昭和二十五年) 日本新教連盟設立 日本福音自由教会発足
一九五一年(昭和二十六年) 日本イエス・キリスト教団発足 JBCC設立 日本福音連盟設立 太平洋放送協会設立
一九五二年(昭和二十七年) 日本自由メソヂスト教団再建 日本福音教団創立
一九五七年(昭和三十二年) 日本福音クルセード発足
一九五八年(昭和三十三年) 基督聖協団誕生
一九五九年(昭和三十四年) 大阪クリスチャン・クルセード 宣教百年記念 聖書信仰運動 伊勢神宮問題
一九六〇年(昭和三十五年) 日本プロテスタント聖書信仰同盟設立 国際超教派教役者大会 靖国神社国家護持問題がおこる。
一九六一年(昭和三十六年) 東京クリスチャン・クルセード JCEM誕生
一九六二年(昭和三十七年) 日本ケズィック・コンベンション発足
一九六三年(昭和三十八年) 日本キリスト伝道会発足
一九六四年(昭和三十九年) 東京福音クルセード 五者会談はじまる 新世紀クルセード 東日本宣教の集い
一九六五年(昭和四十年) 新改訳聖書出版 日本バプテスト教会連合創立
一九六六年(昭和四十一年) 日本福音主義団体連絡委員会 東洋福音会議
一九六七年(昭和四十二年) ピリー・グラハム国際大会
一九六八年(昭和四十三年) 日本福音同盟設立、蔦田二雄師実行委員長 JEMA誕生アジア南太平洋伝道会議
一九六九年(昭和四十四年) 学園紛争、教団紛争はじまる 総動員伝道発足 日本クリスチャン信徒連盟誕生 日本聖泉基督教会連合誕生
一九七〇年(昭和四十充年) 大阪福音クルセード万博問題 バプテスト世界大会 日本福音主義神学会誕生
一九七一年(昭和四十六年) 日本福音教会連合誕生 蔦田二雄師急逝 安藤仲市師JEA実行委員長に就任
一九七二年(昭和四十七年) JEA第一回宣教懇談会 新聖書注解出版
一九七三年(昭稲四十八年) 靖国問題緊迫
一九七四年(昭和四十九年) 日本伝道会議(京都) 世界宣教国際会議(ローザンヌ) JEA第二回宣教懇談会
一九七五年(昭和五十年) JEA第六回総会
一九七六年(昭和五十一年) JPC全国大会 日本基督改革派創立三十周年記念宣言(教会と国家)発表 JEA全国大会
一九七七年(昭和五十二年) 首都圏宣教 米田豊師、沢村五郎師、常葉隆興師逝去 JPC信仰基準完成 JEA第七回総会 新聖書注解完成
一九七八年(昭和五十三年) 山崎亭治師逝去 テレビ伝道協力会発足 JEA十周年記念大会
<座談会>
日本の福音派の現状と将来の展望
出席
安藤伸市(JEA実行委員長)
船越多吉(日本福音連盟前常務理事)
羽鳥明(JEA総務)
泉田昭(JEA総務)
三森春生(JEA宣教研究調査委員長)
H・ジョンソン(JEMA前理事長)
R・フリーゼン(JEA実行委員)
司会
岡村又男(JEA総務)
岡村 日本福音同盟(JEA)の十周年を記念して記念誌を出版することになり、福音派の三十年の歴史と日本福音同盟を考えながら、きょうは座談会形式で「日本の福音派の現状と将来の展望」という題で、先生方にお話をしていただきたいと思っております。
三十年というと戦後の福音派の流れになるわけですが、最近、キリスト教界において「福音派」とか「福音主義」という言葉の定義、「福音派とは何か」「福音主義とは何か」ということが論じられています。ここで私たちが用いる福音派とは、JEAを中心とした「聖書は誤りない神のことばである」という信仰のもとに集まっている教会を呼び、その福音派の現状と将来の展望を語っていただきたいと思います。
福音派の歴史
岡村 日本福音同盟のチャーターメンバーの一つである日本福音連盟(JEF)の船越先生からお願いいたします。
日本福音連盟の歩み
船越 昭和二十七年に日本福音連盟が発足し、今目に至っています。初めは、日本ホーリネス教団、日本同盟基督教団、日本ナザレン教団、日本イエス・キリスト教団、日本アライアンス教団、日本自由メソジスト教団、基督兄弟団などでしたが、一九七四年に日本伝道会議が開催される時点で、たくさんの団体が加盟し、現在十三団体になります。ですから、日本伝道会議が日本福音連盟にとって一つの飛躍の時といいますか、契機になって、その後は安定した状態が今日まで続いています。日本伝道会議のときから加わった団体は、基督聖協団、日本地方伝道団、信徒連盟などです。
岡村 安藤先生、福音連盟の初めのあたりのことで何か……。
安藤 世界福音連盟(WEF)の総主事をしていたクライド・テーラー師が来日したとき、日本はまだばらばらの状態でした。彼が福音連盟のようなものを日本でもやったらどうかというサゼスションを与えたのです。それを受けとめて始まったわけです。初めは個人参加もあったりして、私なども『福音時報』が出た時には奉仕したりしました。竹田俊造先生が題字をお書きになった『福音の友』という月刊誌が出ていたこともありました。そんなところから出発して日本福音連盟になったわけですが、初代の理事長には平出慶一先生がなりました。
そのうち整理しなくてはならないような問題が起ってきた。統一教会の問題、韓国の問題、アジヤの信徒連盟を作るというような問題等、いろいろあって脱退していく人々もいました。
その間に五者会談というものがありました。クライド・テーラー師のサゼスションによって日本福音連盟というものができたわけですが、外国との交渉団体としては、当時の福音連盟では日本の福音派をカバーできていないということで、もっと大きなものにしなくてはならないということになった。そこで五者会談でいろいろと話が進められたのです。五者会談は後に四者会談になりますが、結果的には、そこから日本福音同盟が生れることになるわけです。
日本福音連盟は、一時的な混乱はありましたが、その後は平静、順調で、先にお話があったように、七四年の日本伝道会議を契機に、さらに多くの団体が加わり今日に至っています。
宣教師団体の歩み
岡村 福音派の歴史といえば、宣教師の方々がいちはやく日本にいらして大きな働きをしてきたわけですが、フリーゼン先生からお話を伺わせていただければと思います。
フリーゼン 昨晩初めて、JEMAから出版された『三十年史』(These Thirty Years)を読みました。宣教師の三つの団体について述べたものです。
戦前から宣教師の交わりはあったのですが、戦後たくさんの福音的な宣教師がやってきて、まもなく福音的な交わりができました。一九五二年にEMAJ(Evangelical Missionary Association in Japan)ができ、千人位の宣教師が加わりました。個人参加でしたので、何かしようとしても、思うようにできませんでした。そのうち、宣教団体のグループを作ったらいいのではないかという声が出て、一九六一年にJCEM(Japan Council of Evangelical Mission)ができました。この団体はEMAJと同時に存在したわけで、多くの宣教師は両方に加わっていました。
JEAができたときに、JCEMとEMAJがうまく合体してJEMA(Japan Evangelical Missionary Association)となりました。現在JEMAには四十七団体が入っていますし、個人的にも入れますので、千人以上の宣教師が加わっています。
岡村 羽鳥先生、いかがでしょうか。
羽鳥 私がクリスチャンになったのは戦前でして、日本の教会が当時の軍事政権のもとで苦しんでいたのを見ましたし、軍隊に行ったこともあり、日本基督教団に統合されたときには十部に入っておりました。そういう意味で、戦前のことも少しは知っているつもりでおります。先程の五者会談のときは、一、二回顔を出した程度で、あまり参加しておりませんでした。関係するようになりましたのは、一九六七年に、ビリー・グラハム国際大会が行なわれましたが、その話をビリー・グラハム先生の方からもってこられたときに、どういうわけか、ホーク先生と親しくしておりました関係から、私のところに話がまいりました。私は、福音的な信仰に立つ人々が完全にリーダーシップをとることで、当時考えられる福音的な人々の最大の組織と協力をめざして、先生がたと一緒に働かせていただきました。初め七十人位の先生が集まって話し合いがもたれ、蔦田二雄先生が委員長に、私が総務局長になり、それぞれの先生がそれぞれのポストについてくださった。そうして、ビリー・グラハムの他の大会では見られないほど、福音派がリーダーシップをとった大会ができました。あの大会で協力したことが日本福音同盟の成立につながるのではないでしょうか。
戦前の福音派の動きについては、私がアメリカにおりましたときに、カール・ヘンリーとか、クライド・テイラーといった人々が世界福音連盟(WEF)ができたことをきっかけに、日本にもそれを作りたいというわけでたびたび折衝したことをもれ伺っておりました。テイラーの後にWEFの総主事になったインドの宣教師でカナダ人のデ二ス・クラークという人が、西欧型指導のWEFから脱皮して文字通り世界福音連盟になることをめざしましたが、彼が、当時日本にできていた日本福音連盟がホーリネス系の教会の集まりで、必ずしも広い福音派の集まりになっていないと言い出した。それに対して、日本では、それは内政干渉だという声が上がったりしました。そのことが刺激になって、主体的な福音派の連合の動きになったと思います。こうして摂理的に福音派が協力してJEAができたことは、神の御手を見ることができると思います。
JPC(日本プ回テスタント聖書信仰同盟)ができるまえに、蔦田先生がしばらく日本新教連盟をやっていたことがありましたね。
岡村 日本福音連盟は個人的な呼びかけから始まり、クライド・テーラーの呼びかけでさらに大きな組織となり、さらに日本伝道会議をきっかけに大きくなったわけですね。それに、いま羽鳥先生が言われましたように、ビリー・グラハム国際大会を通して福音派が大きく固まりを見せたわけですね。
羽鳥 一つ言い忘れましたが、一九五三年にユース・フォー・クライストのオールコングレスがあって、一つの刺激になりました。一九五九年の宣教百年の年が、また刺激となりました。
岡村 あのときに、エドワード・ヤング、ロジャー・二コル、オズワルド・スミスなどを迎えて聖書信仰大会がありましたね。その辺からJPCが生まれてくるのではないかと思いますが……。
安藤 あれが終わっても何もやらないということになっていました。終わったら、何かやろうということになった。私はあのとき広報委員長をやっていましてね、蔦田先生が「どうしたらいいだろう」というので、私は「やったらいいんじゃないですか」といってJPCが発足したわけです。私は発足当時、財務委員長をやりました。
船越 私は信仰に入って五十年になりますが、いま思うと、戦前にもいろいろな運動がありましたね。たとえぱ、リバイバル・リーグ、再臨のリバイバルなどがありました。けれども、当時は組織化しませんでしたね。だれが長で、だれが何であってということはありませんでした。ですから、こういう組織ができたのは戦後のことですね。
JPCの歩み
岡村 この辺で日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)のことをお話ししていただきましょう。
三森 JPCの発端はいま語られた通りで、次の年の二月のしめくくりの集会で改めて新しい組織ができたわけです。初めのJPC(一九五九年のJPC)というのは、日本プロテスタント宣教百年記念の Japan Protestant Centenial で、その三つの頭文字を変えないで Japan Protestant Conference として、初めの精神をそのまま継承していくことになったわけです。現在、JEAで大きな役割を果してくださっている方々も、当時JPCに加わってくださ
ったわけで、会員としても続いているわけですもその後、各地区ごとの働きが活発になりました。今はある地区で働きが一時跡絶ていますが、一時関西が盛んになったことがありました。それに刺激されて関東でも何かしようということで、関東での働きも活発になりました。あと、四国、九州、東北、北海道、沖縄など全国に広がりました。
第一回伝道会議のときに、それに参加するためにJPCに加わった方もかなりあるようです。JEAができるまで、JPCの中には、日本の福音派のヴォイスとなるということが期待されていましたが、
何か伝道的な働きをするよりも、聖書信仰の啓蒙とか、その意識を強調する面が多かったと思います。JEAの発足の段階になって、JPCの組織としての意味が濃くなってきているわけで、今も継続的な課題ではないかと思います。片方では個人加盟という特色のある形体で、一人一人の意識をもりたてていくという課題をもちながら、JEAに参加することで、福音派の組織につながるという、もう一つの面が加えられてきたわけです。それがどのように整理されていくか、参加している個人にとっても整理されていかなくてはならないし、JPCという団体にとっても整理されていかなくてはならないと思います。日本福音連盟の方は団体加盟ということで、かなり組織という面が強くあるわけで、この両者が合わさってJEAを作り上げているという、きわめて特殊な構造上の問題があるわけで、今までは良い方に働いてきたと思いますが、このままでいいとは思いません。先のことはまたあとで話が出ると思いますので……。
泉田 戦後の福音派の成り立ちを調べてみると、大きく三つに分類できるという気がします。第一は、日本基督教団から離脱して旧教派の宣教団体と協力して新しい団体を作ったグループ。第二は、戦後新しく創設された教団。第三は、戦後非常に多くの宣教団体が日本に入って自由な宣教活動を各地域で始めた結果生まれた教会。このように、だいたい成り立ちに三つの違いがあるように思います。
日本福音連盟の場合は、第一のグループが中心になっているように思います。その中でも、日本キリスト改革派教会、日本アッセンブリー教団、福音伝道教団などは入っていません。それ以外はほとんど入っていますし、信仰的な煩向からいえば、きよめ派の方々が中心になっていらしたと思います。そういったことから、福音連盟が日本の福音派の重要な中枢的流れを形成しながら、しかし、先程の三つの分類にみる福音派全体、信仰的にはカルヴァン主義的なものとか、それ以外の独自な理念をもっている団体を網羅し得なかったという問題が起ってきたので、五つのグループが生まれなくてはならなかった理由があったと思います。けれども、そういったことに対する反省があったことも事実で、五つであったグループが三つになり、JEAが生まれ、聖書信仰ということで一致し、そのほかのことは、それぞれの違いを大切に認めながら協力していくという形になった。これは大きな流れからいうと、結局行くべきところに行っているというか、神の摂理の流れ
によると言える気がするのです。
JPCのことについては、先程、三森先生が言われた通りですが、付け加えれば、先程、船越先生が「日本伝道会議のときに、日本福音連盟の方に新しく加入される方が増えたし、それまでは大きな教団が中心であったものが、そうでない教団とか、個人の参加が目立った」と言われましたが、JPCでは、ちょうどそれと反対の現象がありまして、最初個人参加だったものが、日本伝道会議以後、教団参加が増えて、それまで千名位だった会員が現在五千名を越えるようになっています。福音連盟とJPCとは、日本伝道会議以来、構成メンバーのあり方が近づいてきているのではないかと思います。個人あり、団体ありで、その組織のあり方が近い関係になったような印象をもっているのです。
船越 JEAができたとき、正直なところ「屋上屋を架す」といった感じが強かったのです。戦前は組織がなかった。組織を作るとトラブルが起こるという印象が強かったが、戦後になって三つの団体が一つになるという。それは、外国からの交渉の窓口になるとか、国内で何かやるときに一つになってやる場合によいことだと思うが、それぐらいのことであって、それ自体が何かをするということについては、かなり抵抗があった。そういいながら十年たって安定してきたということは、幹都の方々のお骨折りもあるし、みんながそれを上手に理解して、それ
を崩さないで盛り立てていこうという前向きの姿勢になってきている賜物だと思うんです。
福音派の現状
岡村 それでは、JEAができて十年、その中に、日本伝道会議を通してそれぞれのチャーターメンバーに多くの方々が加えられ、また全体が一つのまとまりをもってきたということですね。
では、次の問題に移りたいと思います。日本の福音派の現状の概観のようなものを話していただきたいと思います。その中には、JEAを軸とした教会の協力関係、各種伝道団体の問題もあると思います。
まず、JEAを軸とする教会の協力関係をお話しいただきたいと思いますが、その前に、私にひとこと言わせていただければ、戦前からある教団が戦後一つになって日本福音連盟を作っていったと言われるのですが、現状を考えてみますと、戦前からの指導者たちと共に、戦後の若い指導者たちが教団の中に増えていって、そういう方々が各教団の責任を持つようになってきています。そこで、信仰の内容がただきよめ派だけではなくて、聖書信仰に立った広い交わりになってきているという現状があると思います。泉田先生いかがでしょうか。
泉田 教会というとき、厳密に言うと、私は教派的教会だと思うんです。それが、福音連盟とか、JEAがなかったときには、教派を越えた交わりとか理解が非常に弱かった。それがいま進んだと言えると思います。それに、教会と超教派団体との関係、この辺は羽鳥先生が一番苦心していらっしゃる点ではないかと思いますが……。
羽鳥 PBA(太平洋放送協会)に属している者として、いま泉田先生がおっしゃってくださいましたように、いろいろな教義、あり方の違った教会、教派の方々に一つの目的のために協力していただいて、伝道の進展の助けになっていこうとしているのですが、戦前もそうでしょうが、戦後も各種伝道団体のルーツというものが欧米にあって、それが全世界に押し進められて、その出店が日本にできるというのが大きな流れでした。
青年伝道にしても、いまKGK(キリスト者学生会)は自主的な活動が進められていますが、初めの刺激はインター・バースィティの方からあったとか、キャンパス・クルセードはいまだに国際キャンパス・クルセードの本部のもとに動いているとか……。大部分の超教派的な団体にはそのような性格があります。自分のことを言うのは変ですが、太平洋放送協会というのは、宣教師が向こうにある団体をこちらに移したのではなくて、ラジオ伝道、放送伝道の必要を自覚し、その仕事をするために特殊な宣教師が日本で始めた。それが日本人の手に渡されて、日本の教会の主体的なサボートを受けている数少ない各種伝道団体となりました。
そういうことを考えていきますと、各種伝道団体が日本の教会との協力関係の間にはさまって直面している問題は、二つあると思います。そういう形で入ってきた団体が、本当の意味での日本の教会との連携のあり方をどう作り出していくか。団体が「お金もある、方法もある、助けてやるから来い」というようなアプローチの仕方ではなしに、本当の伝道の主体であり、教会形成をしている教会というものに正しい関係で連携するというのが一つ。もう一つは、同じ青年伝道、マスコミ伝道、文書伝道というものが、互いに協力しないで競合したり、反発したりする。たとえば、大学がたくさんあるのに、一つの伝道団体が入ると他は入らないようにしようとか、互いに反発し合ったりする。もっと協力してやっていくことが妨げられてきた。ですから、もう一つの課題というのは、こういう同じような団体が福音伝道において互いの立場を認め合いながら連携していくということがあると思います。そのような課題に取り組むために、二年ほど前に、各種伝道団体の懇談会が組織されました。だれが会長で、どうのこうのということなしに、各団体持ち回りで、その都度、月一回ずつ話し合っていくことになっています。そういう傾向が押し進められていくときに、もう少し広い意味で教派的教会と各種伝道団体との交わりをもう少し有機的にしていく方向性を考えなくてはならないのではないかと感じています。
教会と各種伝道団体との関係が深く理解されていきますときに、いろいろ良いものができあがっていくと思います。PBAなども、始めたときは百パーセント外国からのお金、あるいは国内にある宣教団体からのお金で運営されていたのが、いまはそれがまったく逆転して、一か月二千万円位の予算のうち、三千ドルか四千ドルが外国から来て、あとはみな国内資金でまかなわれるというような、日本の教会の主体性の上に立った団体となりつつあります。それをなおも押し進めて、テレビ伝道が日本の教会の手作りで、日本の教会がやるというような動きが出てきています。学生運動の中でも、KGKの働きがやはり主体性をもって進められていますが、そこでも教会との関わりでもっと密接、かつ太いパイプラインを作るという課題があるでしょうし、日本全体の学生運動を包含したビジョンのもとに進むという課題もあると思います。JEAとしても、将来、各種伝道団体のことを配慮していく必要があると思います。
安藤 けさ、ある朝祷会に出たら「最近の『信徒の友』に、福音派の方はぐんぐん伸びているのに、日本基督教団の方はがたんと落ちている」という記事が出ているという話を聞いたんですが……。
泉田 それは事実で、教会員の数はあまりあてにならないので、礼拝に出ている数を見ないと分からないと思いますが、教会員の数だけを見ても福音派の伸びは明白です。アクティブなメンバーの数とか礼拝出席者数を見ると、日本基督教団の場合、十年前は五万五千人位、いまは四万五千人位で一万人位少くなっています。福音派を合計しますと五万人位で、日本基督教団をオーバーしているはずです。
羽鳥 戦後マッカーサーの呼びかけで福音派の宣教師がやってきて盛んになったが、一時停滞したような気がするんですが……。
泉田 福音派の中でも、日本基督教団から離脱して指導者がしっかりしていて、教会観がはっきりしているようなところは伸びたんですね。最近は少し伸びなやんでいる感じがしますが……。宣教師の働きによって始められたところは、最初の十五年は多く集まったが、教会はできなかったですね。最近では、そのような宣教師の始めた団体の方が伸び率が高くなっています。
岡村 先日、あるミッション関係の先生にお会いしたとき、「リベラルな教会が伸びていなくて、福音的な教会が伸びている。テキストを作るときも、いままでのようではなくてもっと福音派の方を学んで生きているものを作らなくてはならない」と言っていました。福音派が伸びたということは、聖書信仰に立って十字架と復活を宣べ伝える福音のバイタリティがあるからだと思うんです。
羽鳥 福音派の中の教会と宣教師との関係もまたユ二ークだと思います。いつでしたか、大磯のアカデミー・ハウスでリベラルな宣教師が「何のために日本に来ているのか」ということを話し合った。その結論として、「日本人をクリスチャンにするためではなくて、仏教徒であるならば、よりよい仏教徒に、神道信者ならば、よりよい神道信者になることを助けるためだ」というコンセンサスが出たのです。その宣教師たちは日本の教会のしもべになって仕えて行ったのですが、数年たって、その宣教師たちの八十パーセント以上がフラストレーションを感じているということを聞きました。
もう一つ、私が北海道で調べたことがあります。北海遭で伸びている教会とそうでない教会と宣教師との関係ですが、日本人が上に立って宣教師を押さえているところも、逆に宣教師が上に立って日本人を押さえつけているところも伸びていない。完全に日本人と宣教師がパートナーシップをとっているところが伸びているのです。
JEA内の宣教師と日本人教職者との関係は、割合にそういう良い関係で来たのではないかという気がするんです。〔羽鳥氏はこのあと間もなく退席〕
ジョンソン そういうふうになっていれば感謝です(笑声)。戦後宣教師が日本に来たときには、教会はとても弱く、数も少なかったのですが、今は自分の足で歩けるような教会が増えてきました。しかし、互いに日本の教師と宣教師がパートナーとして働いていくことは今後も必要なことだと思います。
フリーゼン 国に一割、二割の信者がいたら、その国の教会も強くて、その国の伝道も自分の力で充分にすることができると思います。けれども、クリスチャンが一パーセントですから、福音の伝わっていないところも多い現状を認めなくてはならないと思います。この二十五年間で教会との関わりが変わってきたと思います。私の団体は開拓伝道をする団体で、日本人の牧師も一人もおりませんでしたので、宣教師が簡単に総会を開いて何でも決めることができましたが、だんだん変わってきました。やりずらいこともあり、できた教会との正しい関係を保
つこともやさしいことではありませんが、教会とのパートナーシップという方法でやらなくてはいけないと思います。互いの賜物を認め合っていけば、宣教師にとっても日本で福音を伝える仕事はたくさんあると思います。宣教団体としての活動は数をへらして、もっと教会とともに伝道しなくてはならないと思いますし、少しずつそのように変わってきていると思います。
岡村 私の関係している団体では、宣教師との関係は比鮫的うまくいっている方ではないかと思います。むしろ最近では、宣教師部に属していた働きについて、「日本の教会で責任をもってください」と宣教師の方から言うようになりました。だとえば、バイブル・キャンプの運営などのディレクターが日本人の手に移っていくなどです。
教会でも一時期は宣教師が律法的に、たとえば酒、タバコの問題にこだわって、本当の福音よりも、一方的な考え方を押しつける宣教師が多かったように思うのですが、最近宣教師たちは福音の本質とか、教会形成とかを考えて協力してくれるので、宣教師はいらないどころか、協力してくれる宣教師がいたらぜひ来てほしい、という教会が増えている状態です。
先程泉田先生が、福音派が伸びていることを言われましたが、その伸びている原因は、福音のバイタリティにあると思いますが、教会形成の立場からその辺をもういちど整理してくださらないでしょうか。
泉田 その前に、協力の問題でまとめさせていただくと、協力の面からも、日本福音同盟という大きな交わりの場があるということは、教会の成長のために貢献が大きいと思います。教派間の違いが今まであまりに大きすぎて、お互いの理解と協力がなかったと思いますが、いまはJEAという土俵があるために、割合に理解と協力ができるようになった。ただ、理解と協力というときに、それぞれの伝統とか、信仰の違いを尊重し合うという態度が大切だと思うんです。
次に、宣教師と日本人教職者との間でも、個人レベルですと感情的になって、大きな視点から理解できない。それが教団のレベルですと、やや理解できるわけです。けれども、JEAという広い範囲の協力関係がありますと、他の教会とか団体との協力関係をいつも理解して、自分の協力のあり方を理解しやすいのではないでしょうか。また、羽鳥先生がおっしゃった各種伝道団体と教会との関係も、JEA
のような交わりの場があれぱ、割合に健全に育っていくと思うし、私はこれからのJEAの課題は、教会が育っていくことによって各種伝道団体との関係をもっと積極的に考えていく必要があるのではないかと思います。というのは、福音派の成長の一つの原因に各種伝道団体が多く、かつ豊かだったことが言えるからです。文書伝道、学生伝道、協力伝道など。これが大きな力であった。しかし、ときどきそれが教会の健全なあり方に混乱を与える時もあったので、JEAのような広い立場で考えるようになっていけばよいのではないかと思います。
戦後のキリスト教の成長を見るとき、まず戦後の十年間は外国の援助と日本人のリーダーシップのあるところは非常に大きく伸びた。その典型的なのが日本バプテスト連盟ですね。次の十年間に成長したのは、教会に対する考え方がしっかりしているグループです。各種伝道団体や宣教師の方々の反省としてあると思うんですが、人々は集まったが教会に結びつかなかった。多くのクルセード、マスコミ伝道もそういった反省があると思います。最近の十年間を調べてみると、福音の理解が明確であるところですね。日本基督教団の場合はそれがあいまいになったために減っている。戦後一時成長した団体でも、福音派の中ですら福音理解があいまいになっている団体は成長が弱くなり始めている、という傾向があるようです。その点、若い団体は福音理解が明確であり、同時に伝道に対して非常に積極的ですね。それにリーダーシップが若い。三十代、四十代の人がリーダーシップをとっている。福音理解が明確で、福音をあいまいにしないで、積極的に伝道していくことが大切という気がしますね。
岡村 日本伝道会議のときに発題する機会を与えられて、私は「交通整理」という言葉を使ったのですが、各種伝道団体が、特に東京とか都会では、入り乱れて活動していて、教会形成と両方では、ちょっと疲れを憶えたりする面がありますよね。各種伝道団体の場合、放送伝道などは全国的ですが、多くは都会的ですから、もっと地方との関わりを考えてもいいのではないでしょうか。
三森 日本で自主的な働きをしているものが多くなりましたが、まだまだ外国から持ち込まれたものが多いわけです。その場合、アメリカを見ると、教会というものが確立されていて、その上でなお教会の手の届かないところ、制度化された教会には受け入れにくい部分を補って、タテ、ヨコの関係が割合うまくいっていると思うんです。海外宣教の問題にしても、それぞれ自分の母教会がありますし、母教会の働きは別個にちゃんとしているわけです。ところが、日本の場合は教会がまだ確立していないのに加えて、伝道団体の方が先走ってしまう。外国からの経済援助が続くうちはいいですが、それが跡絶えたときには行きづまってしまう。アメリカの場合はタテ、ヨコの関係がしっかりしていますから、教会が
それらを支えているという関係にある。タテでは届かないところをヨコに行ってもらう。日本では、タテとは別個にヨコがある。日本の教会が支える、あるいは日本の教会から生まれた伝道団体にならなくてはいけないんですね。今その転換期にきているのではないでしょうか。円高というようなことが、それに拍車をかけているようにも思うんですが…。
泉田 よい協力をするためには、日本の教会がもっと自覚しなくてはいけないですね。
三森 外国の宣教師の方々は、私たちの先輩であると同時に、いろいろと専門があるわけですね。福音派にも専門家がいますが、まだまだ少ない。宣教師も何かしら専門的な学識なり、技能なり、能力をもった方が、それを活用して協力していただけるといいと思うんですね。
岡村 JEAあたりが、やはり各種伝道団体と教会の協力関係を作り上げていくことが大切ですね。教会形成を一つの目標としてやっていかなければいけないのですから。三森各種伝道団体の働きは、どちらかと言うと比較的小さな教団や単立教会から多くの支持を受けています。その辺に、JEAの開拓する余地があるように思うんです。団体の側からも、もう少し大きい教団にもっと積極的な働きかけをする必要がありますね。
泉田 一つの例をあげますと、岡村先生も私も日本聖書刊行会の理事なんですが、新改訳聖書を利用している人たちは、戦後の小さなグループや単立系が多くて、戦後日本基督教団を離れてすぐ大きな教団をお作りになった方々は、まだ使用になっていないという面があります。これは各種伝道団体の方も努力しなくてはいけないけれども、教派、教団の方も各種伝道団体を育てる広い配慮をしていただけるといいと思います。こういうJEAの交わりの中で理解が深まっていけばいいと思うのです。教会の方も、これからは自分たちが各種伝道団体を育てるという気持がないと育たないと思うのです。上手に育てれば、教会形成に役立つのですね。
岡村 日本福音連盟は教団単位の加盟で、各種伝道団体と教団という難しい関係になるんですが、船越先生、その辺いかがでしょうか。
船越 たとえば、太平洋放送の場合でも、スポンサーは現在個人参加ですね。聞くところによると、年末に赤字が報告されると、これは教会が負担すべきだといって、各スポンサーに重荷がかかってくるわけですね。そういうあり方に問題を感じるのです。森山先生がスポンサーの方の会長をしていますので、また会合を開いてお金を集めるわけです。そういう行き方が健全なものかどうか。そういう点、JEA単位で広く負担するようなことが考えられないのか。一部の人の負担に片寄っているように思うんですね。
岡村 各種伝道団体と教団ということを考えますときに、教団にはそれぞれのプログラムがありますね。本部費を納める。弱小教会を援助する。開拓伝道をする。教団レベルの教育活動をする等。教団に属する教会は、教団関係で非常に大きな支出をしているわけです。まして、教団で国外伝道をしているような場合には、非常に大きなプログラムと経費をかけています。各種伝道団体がそういった教団の働きをぬって個人的に各教会に募金運動や協力を求めてくるところに、非常なむずかしさがあると思います。また、各種伝道団体の働きと教団の働きが重なり合うことも多いですね。
泉田 原理的な面の整理をする必要があるのですが、それはされつつあると思います。昔は超教派団体といっていたのが、この頃は各種伝道団というようになってきました。ローザンヌ以後は、パラチャーチというような言葉が使われている。超教派というと、教派教団を乗り越えたという印象でしたが、各種伝道団体というと、教会と並列的な感じになる。パラチャーチということになると、教派教団で行なってきたプログラムが含まれるわけですね。
そういう言葉の使い方の中にも反省が見られると思います。そういう原理的な面の整理が必要ですね。それと同時に、働きの面での整理が必要だと思うのです。先程お話がありましたように、各種伝道団体の間にも競合があるというのですね。放送、文書などの面でも各種あるわけで、それがみんな競争して教会にアプローチされると、教会は混乱するわけです。そういう働き同志で整理すると同時に、教会のパラチャーチ的ミ二ストリーとの問で整理をすると、協カできるようになるのではないでしょうか。
アメリカでもそうだと思いますが、こうした働きをサポートしているのは、割合、単立系の教会が多いと思うんです。教派的な教会はやりにくい面があります。アメリカの場合は教会が多いために混乱は少ないのですが、日本では教会は少ない、仕事は多いということで、問題は深刻ですから、JEAレベルでこういった問題を話し合った方がいいと思います。小さな団体は、そういう種類の働きにあまり顔を出さなくなりますね。出しますと責任を伴ってきますので、教団、教会の働きを考えてどうしても慎重になる。しかし、慎重になれば問題が解決したわ
けではないのですから、その辺の整理をJEAレベルでした方がいいと思いますね。
フリーゼン海外宣教についても、まだ充分でないような気がします。宣教師の監督などについてもですね。
三森 団体を一つにすることはできないし、好ましくもないと思います。また、直接JEAがどうのこうのという段階ではないと思います。JOMAという団体がありますが、教派の宣教団は参加していません。JEAに可能性はあるけれども、もう少し時間をかけて、互いの連絡をよくしていくことが大切ではないか。昨年の十一月に、宣教団体の懇談会があって、JOMAよりも大きな広がりをもった懇談会で参加者から好評を得ているのですが、あまり急進的にならないでやっていくこと、また、聖書信仰を崩さないでいってほしい、そして広く呼びかけてほしい、その位ですね。
岡村 JEAもまとまってきたのですから、海外宣教の働きもうまくまとまっていけるように、JEAが側面から理解していくことが大切ですね。
船越 十年たって変わってきたのですから、一歩一歩なんですよ。積み重ねで信頼関係が生まれてくるんですね。それがこの十年でずいぷん成長したんですね。
泉田 そういう成長した事実を謙虚に評価して、大切にしていくことが必要ですね。
船越 だからといって急激にやると、またバックする危険がありますね。
岡村 JEAができて十年の歴史を経て、各種伝道団体とか、海外宣教とか、みな一つの方向が自然にできていることはすばらしいことだと思います。
将来の展望
岡村 次に、福音派の将来の展望ということですが、まず健全な協力関係ということについて。これについては先程お話に出ましたように、純粋な福音を率直に語っていくこと、また健全な教会を形成していくことに健全さがあると思いますが、健全な協力関係を形成していくようにJEAとしてどう考えていったらよいか。その辺からどうでしょう。
泉田 協力関係には三つあるわけですね。教会間の協力関係、教派的教会と各種伝道団体との協力関係、日本人の牧師と宣教師との協力関係。JEAは第一の面では大きく貢献してきたと思います。アルメ二アンの人がカルヴィ二ストの人と話もできないような状態だったのが、今はあまり低抗なくできるようになっただけでも大きな成長ですね。そのとき大切なのは、同じようになることを急がないこと。違いのあることを理解し、大切にし合うという態度が必要だと思います。
船越 干渉し合うといけないですね。千渉されるのではないかという心配が、十年やってみてそういうもんじゃないと分かってきました。
泉田 第二の関係について言えば、昔は経済的基盤が外国にあったのが、いまは日本にそれを置かなくてはならなくなったということですから、各種伝道団体の方も教会を育てる方向をいっそう強くもってほしいし、教会の方も、各種伝道団体を育てる大きな心を持つように努力した方がよいと思います。JEAにおいてそういう関係について理解を深めるとともに、将来は正しい形で各種伝道団体がJEAに加わっていただくことが必要だと思います。第三の関係は先程も話が出ましたが……。
ジョンソン 今は日本の教会は自分の足でどんどん歩けるようになったと思います。ですから、宣教師が主人でも、しもべでもなく、日本人と同じレベルで働くのいいと思います。日本人が上で、宣教師が下である、というように逆にしないで同じレベルで働くのです。外人は日本人にとって魅力があるし、また、だれとでも話ができます。そういう点で伝道できると思いますね。日本人にできないことを宣教師がやればよいと思います。頭が二つあれぱよい知恵が浮びます。西洋人と東洋人は考え方が少し違いますから、両方の立場からものを見ていけば、いっそうよい働きができるのではないでしょうか。
三森 地方の伝道などで宣教師の働く場は多いと思います。
岡村 そういう意味で協力宣教師がほしいという教会が出てきているのです。
泉田 先程、フリーゼン先生がおっしゃいましたように、日本の教会は自立して終わりではなく、まだ九十九パーセントがクリスチャンでない事実があるわけですから、そのためにもっと協力して、力を上手に使い合うことが大切だと思います。宣教師の先生がもっているいい点は、長さ、すなわち、長いキリスト教の伝統を背景にもっていること、もう一つは、広さ、すなわち、いつも国際的視点から物事を見るということがあると思います。その長さと広さをもって日本人の中にあって上手に働くならば、すぐに伝道に役立つだけでなくて、日本のクリスチャンや教会の健全な成長にプラスになると思います。そのことをもっと評価したらいいと思います。
羽鳥 先生がおっしゃいましたように、宣教師がフラストレーションを起こすとすれぱ、それは神様から与えられているエネルギーやタレントを無駄に使っていることだと思うのです。宣教師の方々がそのエネルギーとタレントを充分に使っていただけるように仲良くやったらいいと思います。
ジョンソン 日本の教会が国外宣教師を送り出せば、宣教師の問題が分かってくると思います。すでにある教会は宣教師を送っていますね。その場合、宣教師はやはりさまざまな問題に直面することになりますから、宣教師の問題も分かっていただけるようになると思います(笑声)。
フリーゼン これからのことについて、少し違った点からお話しさせていただきます。今のJEAのチャーターメンバーである三つのグループですが、宣教師の方は少し退いてもいいのではないかと思います。宣教師側は少し声を出さなくなっていきますが、それでいいと思うのです。宣教師の立場から、日本の教会はああすべきだ、こうすべきだと言うべきではないと思います。日本福音連盟やJPCを指導していらっしゃる方々は立派な方々ですし、信頼しておりますから、二つのチャーターメンバーの方々が積極的に進めてくださっていいと思うのです。
泉田 先に立たなくとも、一緒に座っていてくださることが必要なんです(笑声)。
岡村 三十年前は、宣教師の方々が若くて、日本人の指導者が年をとっていたのが、今は、日本人の指導者が若がえって、宣教師の方々が年をとってしまったという逆の現象が起きています(笑声)。
泉田 四十代の団体指導者が多くなっているのではないでしょうか。若がえっているので、実質的な話し合いがもっとできるようになってきていますね。
岡村 福音連盟にしても、外からはアルメ二アン信仰とみられていますが、戦後育った教職の申にはアルメ二アン信仰でない、カルヴァン的教育を受けた人が多くなっていますので、福音連盟の信仰的基盤が広がりをもっている。JPCとほとんど変わらない信仰をもっている人が多くなっているので、その点ではこれからJEAを土台として健全な交わりや勉強会ができると思うのです。
泉田 いろいろな歴史的ないきがかりを知りませんしね(笑声)。これからのJEAにおいては、教派的教会の相互理解だけでJEF、JPCという意識はあまりもたなくなると思います。むしろ、各種伝道団体とどういうふうに協カしていくか、宣教師の人々とどう協力していくか、が問題になっていくと思います。
教会の成長による躍進
岡村 次に、教会の成長による躍進ということを話し合っていただきたいと思います。
泉田 私が考えるのは、JEAが自己目的化してはいけないということです。つまり、JEAの組織のために何かをするとか、一致を保てぱそれでよいというのではなく、教派、教会や各種伝道団体がのびのびと成長するように仕えていくようなあり方を考えていく。JEAが伝道したり、何かをするのではなく、いま言ったあり方と協力関係を作りあげていくことですね。もう一つは、日本の教会が直面している問題とか、成長のあり方などを広い交わりの中で一緒に考えていく場となるということです。そのために、信徒を正しく理解してこのような働きの中に積極的に参加していただくことですね。
船越 JEAの機関誌がないですね。三号まで出たと思いますが、その後跡絶えています。PRが足りないのではないでしょうか。そういうものを通して、みんなが考える場を作っていくことも大切ではないでしょうか。年に何回かでも出ると、関心をもつと思います。
泉田 私たちの小さな団体の場合ですが、最初の十年は宣教師の方が一生懸命になって教会を作り、次の十年間は牧師が一生懸命になって教会形成をし、今の十年間は信徒が一生懸命になって教会を成長させなくてはいけないのではないかと考えているんです。私たちの団体のレベルでは七〇%位、信徒の方がリーダーシップをとっていますが、こういったJEAのようなところではなかなか信徒の方のリーダーシップが発揮されない。信徒の方のリーダーシップを大切にしなくてはなりませんね。宣教師の方が一歩退いたように、牧師が半歩ぐらい退けば、信徒の方が活躍できるような雰囲気を作ることができると思います。
岡村 成長している教会は信徒が活躍している教会ではないでしょうか。
泉田 信徒が賜物をいかしてのびのびと活躍しているところは成長していますね。もう一つ、福音の明確で具体的な理解と提示が必要だと思います。ますます複雑化し、あいまいになっていくと思うのですが、聖書信仰に立って、福音の中核的なものを明解に、単純に、具体的に示していかなくてはいけない。福音派がいま与えられている信仰を大切にしていくことですね。これを離れると、教会は成長しないし、教会の中に混乱が起こってくると思います。
岡村 JEAが聖書信仰という旗をかかげて福音理解を正していくことですね。
非福音派との関わり
岡村 福音派でない教会との関わりについて、今後どう考えていったらいいでしょうか。
三森 その前に、日本キリスト教団の中の福音的な人々のことですね。先程話があった新教連盟、JPC、JEAという流れの中で、WCC、NCCに対するアンチテーゼがあったと思います。組織的に対立するとまでいかなくても、信仰にしっかり立ってそうした働きをめざしたという面があったと思います。JEAができて、"組織的にはNCCに組み込まれているが、信仰的には福音的だという人々"をどう包含できるか、という問題が出てきていると思います。
実際、まじめな取り組みがなされてこなかったと思うのです。総動員伝道とか、羽鳥先生の働きの中に、それがかなり組み込まれてはいましたが、JEAとしてはまだ表の窓口から迎えていない。JPCは比較的にそういう人々が加わっていますね。
泉田 一九八○年か八一年に行われる第二回日本伝道会議までには、そういう人次との協力関係をどうするかについて、JEAはまじめに考えなくてはいけないと思いますね。今までは、自分たちの三つの交わりを固めることに一生懸命でしたが、いまは交わりが育ちましたから、他のグループにいる福音的立場にある人々にこちらから手を伸ばしていく必要があるのではないかと考えます。その面では各種伝道団体が大きな働きをするのではないかと思います。そういうことから、教会観をしっかり持つと同時に、羽鳥先生のような存在と働きをもっと理解評価していく必要があると思います。教会観、聖書観をあいまいにしてしまうと大変危険ですが……。これからの大きな課題ですね。
船越 日本キリスト教団の中にそういう人々がいるのですね。
泉田 そういう人々との交わりが今後進められる必要があると思うのです。
船越 福音連盟に加わっている方もいます。
三森 成長していない日本キリスト教団の中で、ホーリネスの群れなどが成長して、経済的にも大きな力を持っている。ビリー・グラハムが大きな大会を開くときにとっている態度に、多少学ぶことができるかなと思っています。くわしくは分かりませんが、チームのメンバーや働きの中核ははっきりした信仰の立場に立つ人々ですが、いろいろな形で招待したり、ゲストにしたりしていますね。私たちも広い心でそれらの人々を迎えることができるのではないでしょうか。
岡村 昔は、福音派の人々はあまり学問的でないというようなことがいわれていましたが、最近では『新改訳聖書』『新聖書注解』などが出て、レベルも高くなっていますので、対等に話し合えるのではないかと忠います。そういう面でJEAがしっかりした信仰と神学をもっていなくてはいけませんね。
三森 確かにそういう評価を受けつつありますね。しかし、まだ底が浅いというか、歴史が短いですから謙遜にならなくてはいけませんが、若い人たちの中にかなり優秀な人々が出ていますね。
泉田 『新改訳聖書』が出て、福音主義神学会ができて、『新聖書注解』といったものが出てきましたね。ですから、これからも成長していきます。
けれども、逆にそれによって聖書信仰が問われるという新しい問題が起こってきた。批評学などの関係ですね。JPCが直面している面もそれですね。聖書が誤りなき神のことばである面と聖書が歴史的文献ということとをどのように信仰的、神学的、聖書神学的に調整するかということですね。具体的には、『新聖書注解』ができてモーセ五書の問題についてどう考えるか、という問題が起こっています。
ですから、私たちが逆に問われて、まじめに考えなくてはならないようになってきていると思います。
岡村 アメリカでは聖書信仰が問われているそうですね。
三森 そういう意味でも、宣教師の方の協力が必要ですね。
泉田 JPCでも福音主義神学会でも、クロミンガー、グリンリー、カンツァー、バスといった先生たちを招いて話をきくことにしているのです。謙虚に勉強すると同時に、堕落しないためです。
神学校問題
岡村 神学校の話が出ませんでしたがいかがでしょうか。
泉田 JEAは何かをすることはできませんが、神学校もJEAと同じ問題を抱えていると思います。教派的神学校のいい面と足りない面、超教派神学校のよかった一面と弱い面。それに、日本の場合は小さなスケールのものが多すぎますね。といって、すぐ協力すればいいかというと、そうも言えませんね。そういった基本的問題を考える機会をJEAが設けたらいいのではないでしょうか。
岡村 日本伝道会議のときに、専門分科会で話し合う機会がもてましたね。ですから、第二回のときはもっと整理されて、もう一度語し合うのはもちろんですが、今から準備していけば大きな成果が上がると思います。
アジヤおよび世界の教会との関係
岡村 宣教師の方々がまず日本に来てくださったわけですが、最近は日本からも少しずつ宣教師を送り出すようになりました。日本の教会はこれからアジヤや世界の教会に対してどういう態度をもっていくべきでしょうか。
ジョンソン 数年前までは、日本人の宣教師は日本人のいる所に行きました。最近はそれが変わって、まったく知らない国に行くようになりましたね。アジヤでは西洋人が入れない国が多くなりましたが、日本人はまだ自由に入れると思います。特にビジネスマンは世界中にいますから、クリスチャン・ビジネスマンがいいですね。宣教師が入れないところにも入っていけるのですから。個人的に伝道すればいいと思います。アジヤは近いのですから、どんどん行けばいいと思います。同じアジヤ人ですから、すぐ理解し合うようになります。
アメリカのように、国外宣教に関心のある教会はどんどん成長するようになります。エルサレムだけ見ないで、地の果てまで同時に見れば、エルサレムも成長する。しかし、エルサレムが全部救われるまで待てぱ、地の果てまで行けないことになります。ですから、日本の教会が成長するためにも、国外宣教のビジョンをもつ必要があります。
岡村 同じ文化があるから理解しやすい面と、いま日本がアジヤから浮き上がっている面とがあるんですね。ですから、そういう中でアジヤで会議をやると、まだ独立した教会形成ができていない国々が多いわけです。日本は割合に早く成長して宣教師を送れるようになりました。そういう中で、日本の教会がアジヤにどう近づき、溝を埋めていくかという課題がありますね。
三森 日本から宣教師を送り出して初めて欧米の宣教師の苦労が分かったと思います。それを無駄にしないで、課題を進めていかなくてはならない。現地の教会が早く成長するように配慮する必要がありますね。
問題は別になりますが、日本人の海外渡航者、居留者、留学生などがたくさんいますね。その中でクリスチャンの交わりがぼつぼつ出てきています。そこに本当に福音的な指導者がいたらすばらしいと思います。アジヤでは、香港、シンガポール、バンコック、ジャカルタなどにジャパ二ーズ・クリスチャン・フェロシップがあります。聞いている範囲では、福音的な方々がリーダーシップをもっているようですが、JEAあたりがそういうところと連絡をとって、福音的な人たちが行くときや、JEA関係の伝道者が行くときには、そういう所でご用していただくとか……。働きの範囲は小さいかもしれないが、社会的に大きな影響力をもった人たちですから、いい奉仕になるのではないでしょうか。また、日本にいる留学生の伝道についても、JEAが真剣に考えて、いろいろな教派の協力を得ていくことが必要ではないか。
泉田 今までは宣教師を送るという関係の協力でしたが、これからは宣教師を送るという関係でない協力も考えなくてはならないと思います。実は、近々フィリッピンに行く予定です。私たちの関係している団体と神学校の創立二十五周年で行くのですが、それを機会に、フィリッピン、インド、日本とが将来どういう協力が必要なのかを話し合います。神学的な面、あるいは経済的な面などでどう協力できるかということですね。ただ助ける助けないということではなしに、ワールドミッションということでパートナーシップを考えていこうということです。
十一月にシンガポールでアジヤ指導者会議(ALCOE)が開かれます。私はALCOEに対して厳しいことをときどき言うのは、これは教派単位の協力ではなくて、国と国との協力ですから、ただ集まって勉強したとか、交わったということではなく、
将来の協力についてのワンステップになっていただくためには、できるだけ正しいあり方を考えてほしいと思うからなのです。私はALCOEのようなものも、JEAが健全に協力するように努力を続けることが大切でないかと思います。これが個人的レベルになったんでは、せっかくの会議の意義が半減してしまうので、教会、教団、福音連盟、JEAというレベルで何ができるかを考える機会にしてもらいたい。アジヤに対しては、そういうことを通して日本の教会がもっと仕えていくことができたらすぱらしいと思います。十一月のALCOEはそういう意味で大切だと思います。個人的レベルの参加に終わらないようにしてもらいたい。
岡村 私たちの団体でも台湾の教会とは個人的なレベルでの教会との交わりができていたんですが、同じミッションの宣教師たちが台湾にも教会を作り上げてきているので、いまは、兄弟としての交わりが始まりました。私たちの関係の台湾の教会は、教会形成が非常に遅れている。まして、教団という関係ができていないので、日本の教会形成とか、教団の交わりというものを見て、学びたいという気持があるのです。私たちの方も、行ってみて、一緒に学びながら兄弟としての交わりを深めたいという、非常にいい状態にあるんですね。ですから、アジヤの諸教会に同じミッションの宣教師が行っているところでは、兄弟としての交わりができてくるんではないかと思います。
世界の福音的教会との交わりということを考えていくときに、JEAがそれの窓口になっていく。どうしても一つの教派、教団ですと、世界に向かう目が狭くなってきているので、日本福音同盟の働きが世界に向かう日本の教会の窓口になっていくと思います。
三森 WEF(世界福音連盟)に加わるかどうかについては、ずいぷん時間がかかっていますが、JEAの成立に一つの刺激剤となったわけですから、あちらに待っていただいて、さらに研究するというのはちょっと不義理ではないかという気がしますが、しかし、それだけの時間を要する問題であって、無駄ではなかったと思います。もっと努力してWEFの実体を知り、また知らせるようにして一歩ずつ近づいていくことが大切でしょう。世界の方も変わっていくんですね。ここ数年、WEFとローザンヌ継続委員会との関わりがあちらでも問題になっていますが、そういうことを参考にしながら、将来のことを考えていかなくてはならないと思います。この前のローザンヌ会議参加のときは、JEAの方ではこういう人が行きますという報告程度でしたが、今度のシンガポールの場合は、JEAがもっと進んだ形で参加を決議しています。一歩ずつ進んでいると思います。泉田先生のおっしゃったような厳しさをもちながら、なお積極的に世界に出て行く。言葉のハンディとか、いろいろなことがありますが、福音のパートナーシップということが聖書的原理だと思いますので、引っ込んではいけない。いろいろな方法を通して関わりを持てるんではないでしょうか。受ける一方ではなく、もっと日本のことを知らせ、証しをしなくてはいけないと思います。
岡村 これで終わりたいと思いますが、第一回日本伝道会議から第二回日本伝道会議に向かって、日本福音同盟の将来の展望が開けている。十年の歴史があるのですから、これからの十年は明るい展望を持ちながら、深い協力関係が作られていくのではないでしょうか。ありがとうございました。
新しい時代に向かう福音派の神学
村瀬俊夫
日本福音同盟(以下JEAと略記)が発足して早くも十年を迎えた。この十年の歩みの中で、日本の福音派は七十年代前半の危機を乗り越えて着実に前進し、大きな躍進をとげることができた。その原動力となったのは、「聖書は誤りのない神のことばである」と告白する聖書信仰である。JEAの創立会員の一つである日本プロテスタント聖書信仰同盟(以下JPCと略記)では、一九六九年に『現代と聖書信仰』を刊行してから、毎年あるいは隔年に出版活動を継続して今日に至っている*1。その出版活動を通して、聖書信仰を神学的・実践的に確立する働きを具体的に進めてくることができた。そのことは、日本の福音派の将来にとって重要な意味をもっている。なぜなら、JEAによって代表される日本の福音派は、今や新しい時代に向かって大きな責任を負わされ、それに応じる新たなる展開を迫られているからである。それというのも、日本のキリスト教界において福音派の占める地位が相対的に高まってきているからにほかならない。かつては、聖書信仰に立つ福音派であることは、キリスト教界において、主流ではなく明らかに傍系に位置づけられていて、何となく肩身の狭い思いをさせられていた。筆者自身の経験から言うと、そのように感じさせられた要因の一つは、福音派の学問的レベルが低く、すべての面で非常に遅れているという意識であった。それが福音派の知的コンプレックスとなっていたように思う。ところが、今目では状況がかなり変化し、福音派の知的コンプレックスは次第に解消されつつある。その顕著な事例の一つは、昨年の秋、福音派に属する日本人執筆者の手になる『新聖書注解』旧新約全七巻の完成を見たことである。これによって、日本の福音派は、非福音派に対して決して遜色のない聖書学的水準を示すことができた。日本のキリスト教界において、福音派は決して無視されることのできない重要な存在となってきている。
そのことは、日本の教会がこれまで最も深いかかわりを持ち、その影響を多く受けてきたアメリカの教会およびキリスト教界において、もっと早い時期から認められてきたことである。現在のアメリカのキリスト教界において、福音派ないし保守派は揺るぎのない勢力を占めている。非福音派・非保守派の教会が衰退気味であるのに対して、福音派・保守派の教会はめざましい成長と躍進をとげている*2。現在の大統領ジミー・カーターが南部の福音派の教会の出身であることも、アメリカにおける福音派が今や歴史的・社会的に大きな影響力を持つに至ったことの証左であろう*3。それで、アメリカの福音派における神学的状況を歴史的に考察しながら、それを下敷にして今日における日本の福音派の神学的状況ならびに課題について考えてみることにしたい。日本のキリスト教界が多くの点でアメリカのキリスト教界の範にならい、少し遅れてその後をたどっている点において、福音派も例外ではないからである。
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アメリカの福音派ないし保守派のキリスト教は、歴史的に見てファンダメンタリズム(根本主義)との深いかかわりを持っている。時には、両者は同義語的に考えられているほどである*4。しかし、これから述べることによって明らかなように、両者ははっきり区別されるべきであって、不用意に両者を同一視することは厳に慎まなければならない。
アメリカにおけるファンダメンタリズムの起源は、今世紀の初め、ヨーロッパから流入した自由主義神学が怒涛のようにアメリカの神学校、教会、社会に波及していく中で、それを阻止して正統主義の信仰の根本真理を擁護しようとして立ち上がった神学的運動であった。その後のアメリカにおけるファンダメンタリズムは、さまざまな変遷をとげて今日に至っている。
昨年(一九七七年)十一月に来日して、日本福音主義神学会とJPC大会で講演された米国ベセル神学校教授のクラレンス・バス博土は、アメリカにおける根本主義の歴史的展開を四段階に分けて、まことに明快に述べてくださったので、それを紹介したい*5。
その第一段階は、根本主義運動が起こった時期(一九〇〇-二〇年)で、「神学的根本主義」と名づけられる。「ファンダメンタルス」(根本的な諸事項)というタイトルで、一連の神学的著作が刊行された。その中で、聖書の無謬性、キリストの神性、処女降誕、贖罪的死、肉体の復活、可視的再臨の教理が強く弁証されている。この時期の根本主義運動の指導者たちは、自由主義神学と真正面から対決しようとした偉大な正統主義神学者たちであった。たとえば、「処女降誕」の執筆者はジェイムズ・オア、「キリストの神性」の執筆者はベンジャミン・B・ウォーフィールドである。彼らは、信仰の基本的内容で一致していたが、詳細な点では互いの相違点を認め合っていた。たとえぱ、オアは有神論的進化論者であり、ウォーフィールドは無千年王国論者*6であった。ところが、その後の根本主義の流れにおいては、その両者とも認められないものになってくるのである。
根本主義運動の第二段階は一九二〇-三〇年の時期で、「組織化された根本主義」と名づけられる。この時期の特徴として、次の三点で、根本主義がいっそう厳格な立場を求めるようになったことが挙げられる。第一は、進化論反対の立場から創世記冒頭の記事を字義的に解することである。第二は、ディスペンセーション説*7の立場から終末論に関して前千年王国論を取ることである。第三は、真理の純粋性を守るために意見を異にする者たちとは共働せず、むしろ分離すべき
であるという主張である。この時期には、根本主義者は自由主義者に押され気味で、主要な教派や神学校の指導者は自由主義者によって占められるようになった。一例を挙げれば、プリンストン神学校の場合である。ウォーフィールド亡きあと、同神学校は急速に自由主義化して行く。グレシャム・メーチェンは、当時根本主義者の雄としてプリンストン神学校の自由主義化に反対したが、ついに敗れて同神学校を辞し、フィラデルフィアにウェストミンスター神学校を創設した(一九二九年)。その後、メーチェンは所属する長老教会からも追放され、新しい教派を形成する立場に追いやられる結果となった(一九三六年)。メーチェンは、その信仰と学識を傾けて自由主義に対して堂々と論陣を張り、正統的信仰を知的に弁証した。ところが、その後の根本主義運動は、その伝統を必ずしも健全な形で受け継ぐことができなかったように思われる。
根本主義運動の第三段階は一九三〇-四五年で、この時期に根本主義は全盛時代を迎える。それは「体系としての根本主義」と名づけられるが、ある特定の聖書解釈原理(ディスペンセーション説の前千年王国論の中でも前患難説*8の立場)を取ることが正統的である、と主張された。根本主義が盛んになる背景には、一時優位を占めていた自由主義が、この時期になると新正統主義からの挑戦を受けて、根本主義との戦いに向けるエネルギーを次第に失ってきたことがある。その間に、根本主義はある種の体系化をなしとげ、聖書の絶対的権威を高調し、伝道と救霊に力を注いだ。アメリカの各地に、聖書の学びと霊的訓練とを主軸とする聖書学校が造られたのも、この時期のことである。しかし、神学的に見るとき、根本主義は次第に過去のものになりつつあった。
第四段階は第二次大戦後(一九四五年以降)で、その時期に根本主義は衰退の一途をたどる。それは皮肉にも、根本主義者の内部から起こった新しい神学的関心によって促された。新しい保守的キリスト教の神学(福音主義神学)の台頭である*9。一九五七年に、カール・ヘンリ編の『現代の福音主義思想』(Contemporary Evangelical Thoughts)と題する論文集が刊行された。九人の執筆者がそれぞれの専門分野における福音主義の知的活動を紹介している。巻頭の編者ヘンリの筆になる序文には、次のように記してある―「ちょうど半世紀が経過したが、その間著名な学者たちは聖書的キリスト教を冷笑した。そして、その代わりに彼らは自由主義の世俗的・現代的神々の擁護にまわった。だが、最近、それらの人造宗教の失敗があらわとなり、今や福音主義キリスト教にとって新時代がやってきた。今日、歴史的キリスト教有神論は、疲労と幻減を感じているわれわれの時代に新鮮な適応性を持っていることが明らかとなってきた。福音主義の再発見は始まったのである!*10」
邦訳されているウィリァム・ホーダーンの二冊の本『転換期の神学』(一九六九年、原書一九六七年*11)と『現代キリスト教神学入門』(一九六九年、原書初版一九五五年、同改訂版一九六八年*12)は、比較的公平にアメリカの神学的状況を紹介している。その両書で、ホーダーンは、自らは新正統主義に立つ学者であるが、保守主義・根本主義の立場をかなり好意的に扱っている。『現代キリスト教神学入門』(原書改訂版の邦訳)の第三章「根本主義と保守的キリスト教」を、彼は次のようなことばで結んでいる。「この章を改訂するにあたり、初めてこの原稿を書いてからわずか数年の間に、保守主義はわたしが予想した以上に前進した。死ぬどころか、世論調査その他のさまざまな意見は、保守主義は他の神学的立場のどれよりも、プロテスタントの教職、信徒の広い層に対して発言していることを明らかにしている。保守主義者は、非保守主義神学の優れた学徒であり、喜んで学ぽうとの姿勢をもっている。ところが保守主義者でない人は、保守主義のものを読もうともしないし、ましてや学ぽうともしない。……*13」
保守的な福音主義に立つ学者たちが次第に育ってくると、福音派の神学教育機関が拡充されるようになる。一九四七年には、カリフォル二ァ州パサディナ市にフラー神学校が設立された。東部のウェストミンスター神学校に匹敵する西部の代表的神学校で、現在では神学部・世界宣教部・心理学部を擁し、学生数も一千名を越えている。それから、保守的福音主義に立つキリスト教書の出版が盛んになり、福音的香気の高い古典的文献が復刊され、オランダの神学者G・C・ベルカワーの教義学シリーズの英訳が刊行された*14。定評のあるG・キッテル編『新約神学辞典』(Theologisches Wo:rterbuch zum Neuen Testament)の英訳は、フラー神学校のG・W・ブロムリー教授の手で行なわれた*15。米英の福音派の新進気鋭の学者たちの神学的著作は枚挙にいとまがないほどである。一九五六年には、『クリスチャ二ティ・ツディ』(Christianity Today)が創刊され、今日では福音派のオピ二オン・リーダーとして隔週十五万部を出している。また、福音主義に立つ二つの学会が誕生し、今日まで活動を続けてきている。一つは一九四一年に設立された「米国科学連盟」(ASA)、もう一つは一九四九年に設立された「福音主義神学会」(ETS)である。
一九五〇年代に根本主義陣営から輩出したアメリカの福音主義神学者たちは、根本主義の神学校の出身であったが、非根本主義の大学や大学院(ハーバードなど)で博士号(Ph.D.)を取り、新風を吹き込むために出身の神学校へ戻って行った。彼らは、近代的な科学的思考や方法論にアレルギー現象を示すようなことがなく、異なる立場とも対話し、それを理解することの重要さを身につけていた。こうして、全盛期の根本主義を特色づけていたディスペンセーション説の聖書解釈から解放されて、いっそう健全な文法的・歴史的・神学的釈義に立って聖書神学を展開してきた。宗教と科学の関係にっいても、両者にはそれぞれ固有の領域があり、それぞれにふさわしい研究方法があることを認めるようになっている。両者を同じ次元で対立させたり、無理やり調和させたりすることはしなくなった。こういう点で、新しい保守的福音主義は、明らかに根本主義と一線を画している。
こうした新しい福音派の動きは、根本主義内部からの反省として生まれた側面があると同時に、相手側の変化にも応じている面がかなり多い。それは、先に述べたとおり、自由主義が次第に勢力を失い、それに代わって新正統主義が支配的になっていたことである。この「新正統主義」とは、アメリカでE・ブルンナーやK・バルトの神学(危機神学あるいは弁証法神学)に対して呼ぱれるようになった名称のことである。この新正統主義は、自由主義の流れの中から出て自由主義を批判し、その欠陥を克服するものとして登場した。そして、この新しい神学運動から聖書神学が興隆してきたように、それには聖書に帰ろうとする傾向がはっきり見られた*16。それが、根本主義陣営内の新しい福音主義運動との対話を可能にしたのであると言える。とにかく、新しい福音主義神学者たちが、新正統主義の神学的・聖書学的成果から多く学びとろうとしたことは確かである。
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ここで、筆者自身の経験を述べることを許していただきたい。私が一九五〇年から五三年にかけて神学校〔東京神学塾〕で学んでいた頃、ある程度アメリカの根本主義の影響を受けた。ディスペンセーション説にも幾分か触れたが、それ以上に、長老派・改革派の立場で、ウォーフィールドやメーチェンを教えられ、知性を重んじるカルヴィ二ズムの訓練を受けた。それで、自由主義や新正統主義の神学にも、対決的・弁証的立場から多く触れることができた。少なくとも、そういう陣営の神学者や聖書学者の名とその主張のあらましを教えられた。キリスト教弁証論と倫理を教えてくれた若手の宣教師の先生(フラー神学校の卒業生)は、キリスト教社会倫理については福音派には適当な本がないと言って、E・ブルンナーのDivine Imperative(これは英訳で、原書名は Das Gebot und Ordnungen)を持参し、その中から講義されたことを思い出す。
そういう背景があったからであろうか、私は神学校卒業後、牧会・伝道のかたわら神学的関心を持ち続けて学ぶうちに、神学校時代には学ぶことのなかった聖書神学の諸成果に目を向けるようになった。そして、聖書神学興隆の発端となったのは、K・バルトの『ローマ書講解』(第二版、一九二二年)であることを知った。この書で、「バルトは自由主義神学への弔鐘を鳴らした」と言われている。神中心主義の可能性と現実性を積極的に問い、あえて歴史的・批評的研究方法よりも「古めかしい霊感説」を選ぷことにより、聖書を「神のことぱ」として、その語りかけに熱心に耳を傾けようとする神学的態度の確立を促した。それが、その後の聖書神学の興隆と発展となって、神学的な新しい時代を開いたと言える*17。アメリカの一九五〇年代の福音派の新進の学者たちが対話の相手として選び、また積極的に学ぼうとしたのは、これらの聖書神学的諸成果からであった。それは貧しいながら、私自身も同じくたどった道なのである。
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「聖書神学とは、聖書の中心主題ないし中心的メッセージの核心に迫ることにより、聖書を成立させた背景にあるイスラエルおよび初代教会の信仰の内容と特色を啓示の歴史的進展の流れにそって明らかにしていくことである。*18」
この聖書神学の理解は、聖書信仰の解明に非常に役立つ。聖書神学の成果として明らかにされたことの一つは、聖書の中心主題・中心メッセージは、イスラエルの歴史と使徒的教会の歴史とにおいて啓示された神の救いのみわざであり、それについての宣言(ケリュグマ)である。それを「救済史」(ドイツ語 Heilsgeschichte)と呼んでいる*19。
誤解を与えることは避けなければならないが、あえて誤解を恐れずに言うなら、聖書は抽象的な教理体系を含んでいるようなものではない。それはイエス・キリストの生と死と復活の出来事によって終末論的成就をみる、歴史的な神の救いのみわざについてのケリュグマである。聖書的啓示の場は歴史にほかならない。それゆえ、聖書的啓示の背後にある歴史的出来事を軽視したり、それをどうでもよいことのように扱ったら、聖書信仰を根底からそこなうことになる。もっとも、聖書に記録されている歴史的出来事は、聖書的啓示を受けた人々によって信仰的に解釈された歴史、すなわち、御霊によって解釈された歴史であるという事実は、率直に認められなければならない。
「聖書は誤りのない神のことばである」と告白する聖書信仰は、救済史を背景に持ち、それと不可分の関係にある*20。聖書の成立に見られる歴史的・人間的側面にかかわる多様性を貫く聖書の統一性は、この救済史において保証されている。聖書的啓示(あるいは真理)の中心は、救済史の中心に立っておられるイエス・キリストである、と言うことができる(ヨハネ五・三九、Uテモテ三・一五参照)。
聖書が「神のことば」として私たちに語りかけるメッセージは、救済史における「神の大きなみわざ」(使徒二・一一)-その中心はイエス・キリストの受肉・死・復活の出来事-である。そして、聖書は、その神の大きなみわざを見て信じた人々の証言に基づくケリュグマである。彼らが証言している救済史は、決して神話のようなものではなく、真実の歴史である。ただし、それは神のみわざの歴史である。したがって、それは必ずしも科学的実証主義に立つ歴史研究の対象となりうる歴史ではない。しかし、救済史の舞台で神のみわざを見、神のことばを聞いた人々にとって、それは真実の歴史であった。この歴史が、神のことばが啓示される場となっている。
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ここで、聖書の歴史的・批評的研究(いわゆる聖書批評学)と聖書信仰とのかかわりについて考察したい。これは、福音派の神学を論じるときに避けて通れない問題である。これについて結論として言えることは、こうである。すなわち、聖書批評学は、聖書をその成立した時代的・歴史的背景のもとに学ぶことを助けるのに大いに貢献している。その成果として、聖書の中心主題は「救済史」であることが明らかになった。この救済史についての権威あるケリュグマ(宣教)、マルチュリァ(証言)、ディダケー(教理)であることにおいて、聖書はまさに「誤りのない(不可謬な)神のことば」なのである。
それゆえ、聖書信仰は、単なるドグマでもスローガンでもない。それは、私たちを聖書に啓示された救済史における「神の大きなみわざ」に参与させ、「イエスが神の子キリストであることを……信じて、イエスの御名によっていのちを得る」(ヨハネ二○・三一)祝福にあずからせてくれる<生きた信仰>である。聖書の霊感と権威の問題が扱われるのは、この聖書の性格と目的に即応してのことである。
聖書批評学(特に十九世紀的高等批評)が聖書信仰の敵とみなされるような事態を生んだ背後には、いろいろな理由がある。その一つは、十九世紀のヨーロッパが経験した歴史的思考における大変革の一つとみなされる<発展的歴史観>がある。それにはダウイ二ズムの影響が大きかった。それによると、聖書において古い時代に属するものは原始的なものとして軽んじられ、最も進歩した段階におけるものが最高の価値を有するものとして重んじられた。十九世紀終わりから二十世紀初めにかけての自由主義キリスト教(自由主義神学)は、最高の価値を有するものはイエスの倫理的教訓であるとした*21。こうして聖書の中心主題は全く見落とされてしまった。
もう一つの理由は、十九世紀の高等批評*22が科学的合理主義に立ち、人間理性の立場を基準にする徹底した実証主義を武器にしていたことである。歴史的あるいは科学的に実証し検証できないものは信じるに価しない、と言われた。この考え方は、今日でも論理実証主義あるいは分析哲学に受け継がれている。しかし、このような考え方では、「見ずに信じる」(ヨハネ二〇・二九)信仰の本質はとうてい理解できない。人間の理性が知ることのできる範囲は限られている。そもそも宗教的・芸術的真理は、実証主義的研究方法ではとらえられないものである。ベセル神学校のバークレイ・マイケルセン教授は、次のように述べている。「歴史的批評は重要な研究であり、すべての聖書研究者によって支持され、奨励されるべきである。ただし、歴史的批評が自然主義的仮定や哲学的アプリオリの枠組によって支配されるなら、骨の折れる歴史研究の成果はそこなわれる*23。」
今日の聖書神学は、聖書の真理が歴史的・科学的研究によって実証できるような性質のものではない、ということを知っている。たとえば、今日の聖書神学は、キリストの復活の史実性を歴史的・科学的方法で論証できるとは考えていない。その史実性は、キリストを死者の中から復活させた神のみわざに対する信仰によってのみ確証できるものである。その信仰は、信頼できる歴史的証拠を欠いているのではない。キリスト教会は、復活のキリストに出会ったと主張する人々(使徒たち)の証言と宣教の上に建てられた。その使徒的証言ならびに宣教は、究極的な事実的真理として理解されるのでなければ、その本来的意味を失うことになる。
聖書信仰は、聖書が救済史についての権威ある証言、ケリュグマであることを信じる。また、救済史における「神の大きなみわざ」の歴史性を信じる。しかし、ここで忘れてならないのは、聖書の歴史性とかかわる聖書の多様性という面である。聖書の救済史としての統一性は、その歴史的多様性とかかわり、それを貫いている性格のものである。それは、歴史的なものの中に絶対的・究極的なものを位置づけ保証する<終末論的性格>のものである。
このような終末論的アプローチに道を開いたのは、K・バルトが登場する以前のヨハネス・ヴァイス、ヴィリアム・ヴレーデ、アルベルト・シュヴァイツァーの諸著作*24であった。聖書が歴史的に成立した歴史的・人間的側面を有する文書でありながら、同時に、それを通して神が語られた、そして今も語りかけておられる特別の書物であるのは、その終末論的性格のゆえである。この点は、福音派の神学がもっと光をあてて洞察を深めていかなければならない分野である。そのとき、聖霊論とのかかわりが特に重視されなければならない。
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聖書の終末論的性格-そのことは救済史の終末論的性格でもある-を可能にしているのは、それこそ聖書において、聖書とともに働く聖霊のみわざにほかならない。また、そのことを私たちに確信させてくれるのは、その聖霊のみわざ(聖霊の内的なあかし)に答える私たちの信仰(賜物としての信仰)にほかならない。これについて、宗教改革者カルヴァンは、『キリスト教綱要』の中で次のように述べている。「神のみが、その語りたもうた御言葉にっいてのふさわしい証人でありたもうが、それと同じように、この御言葉も、御霊の内的なあかしによって封印されぬうちは、人々の心に信頼をかちとることができない。*25」「聖霊によって内的に教えをうけたものたちは、聖霊のうちにしっかりと安らう。また聖書は『アウトピストス〔それ自身において信じられるべきもの〕』である。したがって、証明や理論づけの下に置くべきものでは決してないが、われわれが持つにふさわしい確実さは、御霊の証しによって得られるのである*26。」
さらに、このような視座で聖書の霊感ならびに不可謬性の問題が扱われなければならない。聖書の歴史的多様性を貫く救済史的統一性は、聖書の霊感のダイナミック(動態的)で有機的な性格、および、その十全的な性格を立証している。聖書の歴史的多様性は、マルチュリア(証言)と教理(ディダケー)の分野においては当然のことであろう。多様性のあるマルチュリアとディダケーを貫いて統一性のあるケリュグマが存在する。たとえば、福音書の多様性と統一性*27、イエスとパウロとの多様性と統一性*28、パウロとヤコブとの多様性と統一性*29等、みなしかりである。
聖書の霊感はその言語にまで及んでいるという意味で、言語霊感が主張される。そのとき、忘れてならないことは、霊感された言語という意味での終末論的性格をになっている事実である。それは聖霊のみわざと不可分な関係にある。こうした現実を無視して、一般の歴史的言語のカテゴリーで言語霊感をうんぬんするなら、どうしても機械的霊感との混同を免れることができないであろう。
聖書の霊感について、もう一つ注目しておきたいことがある。それは、聖書の歴史的多様性の面において見られる、聖霊の<自由な活動の余地>を認めることの重要性である。福音書の資料の伝承において、そのことを認めるのは非常に重要である。その点に目をふさぎ、聖書の歴史的・人間的側面を否定するなら、仮現論的な聖書観に陥ることになる*30。それは聖書の性格を根本的に見誤らせ、ひいては神のことばとしての聖書の権威(不可謬性)の本質をもそこねる結果となる。硬直した根本主義者たちがこの過ちに陥っていたことは、あえて指摘するまでもないであろう。
聖書の権威は、その不可謬性(infallibility)にある。これはカルヴァンが指摘しているとおり、聖書のアウトピストスに基づくアプリオリなものである。それには、もちろん救済史的統一性が深いかかわりを持っている。歴史的・人間的側面、あるいは文化的・科学的側面における無謬性(inerrancy)は、救済史的統一性にかかわる聖書の不可謬性(権威)とは別のものであって、不可謬性とははっきり切り離して扱わなければならない。筆者の考えでは、無謬性の問題を霊感の前提とするのは、はっきり言って誤りである。しかし、まだ福音派の聖書観には、この点でのあいまいさが残っている。現にアメリカでも、そのための論争が盛んに展開されている*31。
筆者としては、聖書の不可謬性を保証するものとして霊感の事実(教理というよりも事実!)がある、と考える。これは何よりも宗教改革者たちの考え方であった。それ以上に、それは聖書自身の考え方であり、あり方そのものなのである。それゆえ、これが正統的な見方であると言わなければならない。
聖書の権威と不可謬性は、その救済史的統一性と不可分である(そのことは、聖書の性格と目的と不可分である、と言い替えてもよい)。したがって、救済史的統一性の<かなめ>であるキリスト論と終末論、その適用である救済論と教会論等とのかかわりで、聖書論が深化され展開されていかなければならない。そのような具体的展開こそ、新しい時代に向かう福音派の神学に課せられた重大な使命である。
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先に述べたように、戦後のアメリカにおける福音派の成長と躍進の背後に、それを支える神学的努力が積み重ねられていた。福音派の陣営から学問的水準の高い神学的キリスト教書が多数刊行されている。この現実に、日本の福音派は注目すべきである。
日本の福音派は、非福音派に比べて成長が著しく、やがて日本のキリスト教会の主流となることが期待されている。しかし、そのためには、いっそうの神学的努力の積み重ねが必要であろう。日本の福音派における神学的キリスト教書の刊行は、まだまだ非福音派のそれに比べて遅れている。欧米の非福音派の代表的神学者の多くの著作が邦訳されているのに、欧米の福音派の代表的神学者の著作はほとんど邦訳されていない。日本人の手になる福音派の神学的キリスト教書の刊行とともに、現代の欧米における代表的福音主義神学者の著作がどんどん邦訳刊行されることが望ましい。
そのことは、今後の日本の福音派の成長と躍進のために、きわめて重要である。なぜなら、これからの日本の福音派の諸教会は、教勢の面においてだけでなく、社会的・文化的な面においても成長していかなければならないからである*32。もしそうでなければ、日本の福音派が日本のキリスト教界において主流を占めることも、はかない夢にしかすぎなくなるであろう。
注
*1 『現代と聖書信仰』(一九六九年)以後、次の各書が刊行されている。『なぜ聖書信仰が必要か』(一九七〇年)、『聖書信仰と日本の精神風土』(一九七一年)、『対話の中の聖書信仰』(一九七二年)、『聖書とともに』(一九七四年)、『聖書と宣教』(一九七六年)、『新しい時代をひらく信仰』(一九七八年)。
*2 一九七二年に非保守派の陣営のD・ケリイが、『なぜ保守派の教会は成長しているのか』(Why Conservative Churches Are Crowing)を刊行し話題となった。なお古屋安雄著『激動するアメリカ教会-リベラルか福音派か』(一九七八隼、ヨルダン社)参照。
*3 D・クハルスキイ著/柳生望訳『ジミー・カーターの世界』(一九七七年、ヨルダン社)参照。
*4 今日では両者ははっきり区別されねぱならない。それを混同して今日の福音派を論じた不適切な事例として、『福音と世界』誌一九七七年六月号に掲載の喜田川広氏の論文「聖書解釈と説教」が挙げられる。それに対して筆者は、同誌一九七七年十一月号に「日本の福音派の現状」と題する一文を寄せている。
*5 C・バス博士の講演「福音主義とは何か」は、『新しい時代をひらく信仰』(一九七八年、JPC双書2)に収録されている。
*6 世の終りにキリストが再臨する。その再臨が黙示二〇・一-一○に示されている千年王国(Millenium)の前であるか後であるかによって、前千年王国論(Premillenialism)と後千年王国論(Postmillenialism)とに分かれる。黙示二〇・一-一〇に示されている千年王国は、黙示文学特有の象徴的数字の使用にかんがみて、字義的にとるべきではないと考えるのが、無千年王国論(Amillenialism)の立場である。ウォーフィールド自身は、後千年王国論者のように言われているが、キリストの再臨によって最後の審判が行なわれ、神の国が完成することを主張していたので、無千年王国論に立つとみなすほうがよい。
*7 ディスペンセーション(Dispensation)は、ギリシャ語「オイコノミア」の訳語であって、神学的には、配剤者である神が考えている意図、および、それを実施するために企図している方法を意味する。それは神が罪人と結んだ恵みの契約にほかならず、「古い契約」と「新しい契約」の二つの時代において示された。この古い時代と新しい時代の二つのディスペンセーションを認めるのが聖書自身の立場である。ところが、「ディスペンセーション説」と言われるものは、聖書の中にさらに多くのディスペンセーションを見ようとする。スコフィールドは、無垢、良心、一般的統治、約束、律法、恵み、王国の七つのディスペンセーションを主張する(Scofield Referenced Bible)。
*8 キリストの再臨にさいし、聖徒たちが天に携え上げられる。それが患難期を経ないか経るかで、前患難説と後患難説とに分かれる。
*9 『クリスチャン新聞』一九七八年一月二十九日号に掲載の宇田進氏の論稿「一九四、五〇年代よりの福音主義神学の降起」(長期シリーズ「福音主義」第三十五回)参照。
*10 Carl Henry (Editor), Contemporary Evangelical Thoughts, 1957, p.7.
*11 William Hordern, NEW DIRECTIONS IN THEOLOGY TODAY, Volume I, Introduction.1967.
*12 William Hordern ,A Layman's Guide to Protestant Theology,1968.
*13 W・ホーダーン著/布施濤雄訳『現代キリスト教神学入門』一一二-三頁。
*14 G.C.Berkouwer, STUDIES IN DOGMATICS これまで Faith and Sanctification, Faith and Justification, The Providence of God, The Person of Christ, General Revelation, Faith and Perseverance, Divine Election, Man: The Work of Christ, The Sacraments, Sin, TheReturn of Christ, Holy Scripture の順に、十四巻の英訳が刊行されている。
*15 Gerhard Kittel (Editor) , translated by Geoffrey W. Bromiley. Theological Dictionary of the New Testament. Vols., 9 Eerdmans.
*16 今世紀の聖書神学の興隆の背景には、K・バルトの『ローマ書講解』によって触発された、「神のことば」である聖書の語りかけに熟心に耳を傾けようとする神学的態度の育成があった。
*17 『なぜ聖書信仰が必要か』の中の拙論「聖書信仰と聖書神学」参照。
*18 『なぜ聖書信仰が必要か』五三頁。
*19 拙著『聖書の中心的な流れ』(一九七一年、いのちのことば社)は、救済史について信徒向きに解説したものである。
*20 『現代と聖書信仰』の中の拙論「聖書信仰の神学」参照。
*21 その典型として、ハルナック著/山谷省吾訳『基督教の本質』(岩波文庫)参照。
*22 Higher Criticism の訳語。これに対して Lower Christianism があり、「下等批評」と訳されていたことがある。しかし、それは誤解を与えやすい名称なので、現在ほとんど用いられない。それに代わって、「本文批評」(Textual Criticism)と呼ばれる。それが基礎(下部)になって、その上部に歴史的・文学的批評が行なわれる。その意味での「<高等>(上部)批評」であるが、この用語も今世紀になってから使用されなくなっている。聖書批評学が前世紀とは格段の進歩をとげているからである。
*23 Berkeley Mickelsen. Interpreting The Bible, 1963, p.45.
*24 Johannes Weiss. Die Predigt Jesu vom Reiche Gottes, 1892; William Wrede. Das Messiasgeheimnis in den Evangelien. Zugleich ein Beitrag zum Verstdndnis des Markuseuangeliums 1901;
Albert Schweitzer. Das Messianitdts-und Leidensgeheimnis. Eine Skizze des Leben Jesu. 1901.
*25 カルヴァン著/渡辺信夫訳『キリスト教綱要』第一巻七章四節。
*26 同書第一巻七章五節。
*27 四つの福音書が「一つの福音」を伝えている。同じ出来事について、四つの福音書の記録の間にかなりの違いが見られる場合がある。たとえば、イエスの受難(裁判)と死と復活の記事の場合。しかし、それらの出来事が何を意味するかという点では、四つとも同じ真理(福音)を語っている。
*28 パウロは、福音に示されているイエス・キリストの事実の背後に立って、その事実に対する聖霊による解説の役をになっている。そのようにパウロを導かれた方は、キリストの御霊にほかならない。
*29 信仰による義認を宣べるパウロ(特にローマ三章、ガラテヤ二章)に対して、ヤコブは行為による義認を強調する(ヤコブ二章)。パウロは罪人の救いに光をあて、ヤコブはキリスト者の信仰が行為から切り離されないことを重視すると見れば、両者に矛盾は全くない。信仰が行為に表わされることを強調する点では、パウロも人後に落ちないからである。
*30 「仮現論」とは、キリストが人となったのは「仮現」であるとして、受肉の現実性を否定する異端的教理である(Tヨハネ四・二、三)。聖書の人間的側面の否定は、同じ誤りを聖書に対して犯すことになる。
*31 H. Lindsel. Battle for the Bible.
*32 一九七四年七月、スイスのローザソヌで開かれた世界伝道会議において出された「ローザンヌ誓約」は、社会的・文化的なかかわりで現代における福音宣教を位置づけた画期的内容のもので、今日における福音派の成熟した神学的水準を示している。ジョン・ストット著/宇田進訳『ローザンヌ誓約-解説と注
釈』(一九七六年、いのちのことば社)参照。
福音派に期待される協力関係
三森春生
はじめに
(一)世界と無関係であり得ない日本
わずか百年前まで、日本はほとんどの欧米人にとって、その存在さえ知られていなかった。同様にこの国の大半の住民は、その生活に世界とのつながりを意識することなど、夢にも思っていなかった。それがどうであろうか。昨今の私たちの日常生活は、何とあらりる面で世界的関連の中に営まれていることであろう。
円高は、百年前に黒船が日本の庶民に与えた以上の衝撃を、世界中の数えきれないほどの家庭経済に与えたことだろう。カナダに落ちたソ連宇宙船の断片が日本に落ちなかったのは、偶然と言ってよいほど実は身近な事件だったのである。領海問題、資源や公害の話題で改めて知る前に、江戸前のすし種の大半が大西洋やインド洋その他の舶来ものであることに驚くべきである。
今や極東の離れ小島の日本も、世界と無関係では、日常生活さえまともに送れないのであり、世界もまたこの小国の存在を無視し得ない現状にある。キリスト教は外来宗教としてこの国に受け入れられたことからして、もともと世界とのかかわりの中で発展してきたことは当然であろう。それにもかかわらず、単一民族、単一言語ではぐくまれ、豊かな独自の文化圏を作り上げたわが国の特殊性からか、日本の教会は必ずしも世界的視野をもっていたとは言えない。我々も世界を知らなかったし、世界からも日本が正しく知られなかったように思われる。しかしこの二十年ないし十年の間に、日本キリスト教界の国際的位置は非常に重要性を帯びてきた。
(二)キリスト教界の世界的関連
教会の国際的つながりとして、歴史的にも実質的にも第一にあげられるのは、世界キリスト教協議会(WCC)にかかわる路線であろう。周知のように一九四八年、アムステルダムにおいて第一回総会が開かれて以来、六、七年ごとに総会が開かれ、最近では一九七五年にナイロピで第五回のそれが行なわれた。日本においては日本基督教団ほか幾つかが加盟している日本キリスト教協議会(NCC)がこれに参加している。言うまでもなく、これはエキュメ二ズム(世界教会合同運動)を基調としており、根本的には福音主義的路線と言うことはできない。
福音派の国際組織としては、一九五一年に結成された世界福音同盟(WEF)があり、現在世界二五ヵ国の福音主義教会連合体が加盟している。これはWCCとは対立的であるが、WCCの中にも多くの福音主義者が含まれている。いずれにも加わっていない教会や組織もある。そうした事情を踏まえて、世界の福音主義者を一堂に集めようと試みたのが、一九七四年七月スイスのローザンヌで開かれた世界伝道会議(ICOWE)であった。これが発火点となって、世界の各地域とにこうした伝道会議が開かれ、また開かれようとしている。その一つが今年(一九七八年)十一月一日から十日まで、シンガポールで行なわれるアジア指導者会議(ALCOE)だ。
これらはいずれも組織団体の形はとらないが、その働きを通して、世界の福音派を実際的に結合させていると言える。
教会の世界的連繋の必要は、日本からも次第に数を増しつつある、海外宣教師の現場から生じている。WCCもICOWEも海外宣教地での問題提起がその結束の大きな動因となっていることを見逃すことはできない。WEFの発足も、インドに福音同盟(EFI)ができたことがきっかけになっている。これらの事実は何を物語るのであろうか。
(三)福音派の対社会認織
福音主義は従来、社会に対する認識が乏しいと考えられてきた。事実そうであった。と言ってもそれは本来の姿であったとは言えない。宗教改革の時代を見ても、十八世紀英国にわけるメソジストの運動を見ても、福音が正しく主張されるとき、それは社会への強い衝撃となったことを示している。
聖書的視点に立つとき、宣教大命令(マタイ二八・19、20)に従うなら、人間社会への介入は当然のことである。それにもかかわらず近年、福音派が社会とのかかわりから遊離していた事実もまた否めない。「福音派」対「社会派」といった表現がされていることに問題を感じない人々もまだまだ多いのである。
そ の点で、ICOWEにわける『ローザンヌ誓約』は画期的、歴史的宣言であった。同誓約第五章は「キリスト者の社会的責任」と題がつけられている。そこには、福音伝道と社会・政治的活動との双方が、クリスチャンの義務であると主張されている。詳述は避けるが、もちろん福音的信仰の立場に基づいた対社会認識であることは言うまでもない。
激変する最近の社会にあって、ようやく社会的責任を自覚再認識するに至ったということは、福音主義的立場が世界のキリスト教会の中に有力な地歩を占めはじめたことの現われでもある。そこからまた、さまざまな面での国際的な共通認識も生じつつある。たとえば「深みの伝道」などに端を発した「総動員伝道」式の伝道方策が、今や「教会成長」という取組みに、その地歩を譲りはじめた観がある。方策万能的な考え方から、弟子化、福音化というとらえ方への転回は、国際的な潮流と言えよう。
一九六六年にベルリンで開かれた、福音派最初の世界伝道会議は「コングレス・オン・エヴァンジェリズム」と呼ばれた。ローザンヌ会議では「エヴァンジェリゼーション」とされているのだが、残念ながら日本の訳語では表わされていない。そのあたりにも、世界の中での日本の位置に関する微妙な課題があるように思われる。
要するに、日本の福音主義者は、今や世界と日本という対照、教会と社会という対照、この、両者者の間に置かれて、その行く先を決めなければならない、はざまに立たされていることを自ら知るべきである。
一 歴史と反省
(一)日本福音連盟の発足
日本福音連盟(JEF)の設立は一九五〇年である。その詳細な経緯を述べるいとまはないので、幾つかの問題点を指摘するにとどめる。その発足に先立つ一九四八年、日本新教連盟なる組織が結成された。これはイムマヌエル綜合伝道団総理であった故蔦田二雄氏の主唱とリーダーシッブのもとに誕生し、その後数年、活発な働きを行なったが、やがてどういう理由でか沈滞してしまった。しかしその後JPCの発足を見ると、組織としては別だが、理念や人脈、リーダーシップの点で伏流が再び地表に出た観がある。
JEFの設立と推進に貢献したのは日本福音教団総会議長星野栄一氏であり、同氏と蔦田氏とは深いかかわりがあった。ある意味でそれは不幸な関係であり、同氏のリーダーシップがなくなった現在に至るまで、JEFとJPCとの関係に後遺症としてもたらされていると筆者は見る。
JEFへのWEFからの働きかけは、かなり早くからあったようで、一時はJEFが日本の福音派を代表する機関としてWEFに加盟するまでに至った。しかしJEFが日本における唯一の福音派連合体でもなく、またそのままでそうなることも期待できないことがはっきりしたため、加盟は棚上げとなった。WEFは、原則として一国一機関の加盟しか認めていないからである。それがやがて日本福音同盟(JEA)の結成の動機となった。
さてJEFは当初、教理的にはホーリネス系信仰の立場を掲げる教団教派の連合体であった。同連盟の大きな事業の一つとして刊行され、現在広く用いられている『聖歌』の内容を見れば明らかである。しかし当時はホーリネスの教理を奉じる指導者が立っていたが、その後世代の交替と共に教理的立場が変わった教団もある。もっとも教団としては特定な教理的立場を強調しないということなので、表面的には問題はないものの、今後の課題として残されよう。
(二)日本プロテスタント聖書信仰同盟
JPCとして親しまれているこの団体は、周知のように一九五八年、日本プロテスタント宣教百周年を記念して、全国十カ所で開かれた聖書信仰大会の結果として誕生した。この大会は米国南長老教会宣教師W・マキルエン氏の提唱で始まった。日本人の中から第一声が起きなかったことにも問題がないわけではないが、それはおくとして、理由は至って明快であった。自分の教会の会員が他の地方に転出した場合、どこの教会に出席させ所属させたらいいか、という問題提起であった。同じ教派やグループの教会があれば心配はないが、そうでない場合、せめて聖書信仰がはっきりした教会を推薦したいが、どれがそうなのか分らない。一つの連合体があって、これに加盟していれぱ安心して紹介できるという組織のようなものができないだろうか。そしてもしそういう連盟ができるとすれば、その共通の基盤、加盟の条件は、「聖書は誤りなき神のことば」という、いわゆる聖書信仰がそれであろう。このような具体的、実際的、しかし決してゆるがせにできない課題を解消したいとの願いから、JPCは出発したのである。
宣教百年記念聖書信仰大会が全国十ヵ所で開かれたことは、この運動と翌年成立したJPCが、中央指向というよりもむしろ地方に根ざした働きへと進むことが期待されていた、と見ることができよう。事実、創立当初数年は、組織の上でも地方の主体性が尊重される仕組があったが、次第に中央主権的な傾向が増し、幾つかの地区では主体的活動が続いてはいるものの、全般に中央の比重がずっと大きくなっている。
JPCにとってもう一つの課題は個人加盟と団体加盟との関係である。参加意識を高め、保ちつづけるには個人加盟がまさっている。また既存のNCCと対立せずに、その傘下にある聖書信仰者を迎え入れるためにも賢明であった。WEFに対するICOWEの関係に似た状態を見るようだ。しかしまた反面で教職や信徒個人が会員であっても、教会や教団教派をあげてこの働きとあかしに加わらせる点で、無力さを感じさせることがある。一九六八年に日本福音同盟(JEA)が結成され、また一九七四年には同盟が主催して第一回日本伝道会議が行なわれるにあたり、JEAに加盟したいという動機から、もちろんそれだけが理由ではないが、幾つかの教会グループや各種宣教団体が団体として加盟した。このことについての評価は是とも非ともされるが、早晩整理をしなければならない問題であることは否めない。
(三)日本福音同盟の結成
JEA成立の経緯は別稿で詳述されるはずであるが、先述のように、外国から、つまりWEFからの働きかけが、一つの発端となり、数年間の協議と祈りの結果、ついに結成に至ったのである。しかし、たといそのような外的動因がなかったとしても、一部の指導者たちは、日本の福音派の一致結合の必要を感じていた。国際的視野をもって見れば当然のことであった。
ある指導者は、確かにWCC=NCCに対立する組織体としてのJEAを考えていた。ある時期は特にそういう傾向が強かった。しかし他の人々は必ずしもNCCの対抗組織としてJEAを考えてはいない。これは今後に残された課題の一つでもあろう。特に(合同教団である)日本基督教団に属する聖書信仰者たちのことを思うと、やはりこういう人々のために受け入れの余地を残しておくべきだと考えられる。
日本伝道会議の開催は、日本の福音派にとって大きな前進をマークすることになった。それがJEAの主催でなされた点は、特に重要であった。それによって、聖書信仰の一線がかなりはっきりと主張され、守られたと言える。参加者の一部、あるいは参加に洩れた人々からの、多少の批難や苦情があったとしても、それには代えられない一つの実績を残したことになる。
二 現状と評価
(一)組織としてのJEAの課題
既に言われているように、団体加盟を原則とするJEFと、個人加盟のJPCという、組織上異質である二つのグループがいっしょになっていることには、当然ながら功罪両面が生じている。JEAを実質的に日本の福音主義者、聖書信仰者の連帯組織とするためには、たとえば日本基督教団のように、その中にさまざまな信仰的立場の人を含む混合グループの中からも加盟者を迎える上で、JEFはおのずからその余地がなく、JPCなら可能である。逆に団体として加盟しているから、その教団に所属する人はすべて福音主義的信仰者であると言えるのか、との問い直しがあることも考えなければならない。その点ではJPCは積極面、消極面でよいクッションの役割を果たしている主言えよう。
JPCには、最初からJEFの重立った人々が加盟しており、信徒・教職を問わずそういう人はかなり居るはずである。JEA結成以後、それらの人々にとっては過去にも増して、屋上屋を重ねるとの感が深いことであろう。またJEFには加盟していないが、JPCにも積極的に参加の意識はない。しかしJEAには加わりたい人々にとっては、JPCを通してしかできないのだから、なお更にその感が深かろう。これについては、早く垣根をはずして一つの組織体になるべきだと考える人々と、慎重にすべしとの両方がある。どちらにも言い分はあろうが、JEA結成に至った経緯と、それに費した年月を考えるならば、多少の時間がかかることを承知しなければならないし、前述した問題への正しい対応がなければ軽率に一つの屋根だけにしてしまうことは困難である。
もう一つ、いわりる超教派団体、あるいは各種伝道団体と呼ばれているグループの参加の課題がある。教派・教団の場合と違って、その構成メンバーはさまざまな背景をもっている。もちろんそれぞれの団体ごとに、福音主義的信仰基準をもっており、そのように認められる団体に限るという前提に立ってであるが、これをJEAとしてはどのように位置づけるかということが問題になっている。今のところでは、JEFがJPCへの加盟を求めているが、これらを一本にまとめて第四のチャーター・メンバーとして加えられないかとの意見が出されている。同じくパラ・チャーチとの概念に含まれるかもしれないが、教団や教派と同質に論じていいものだろうか。教会観の問題もからんでくるが、仮にJEAに直接加わることが認められるとしても、現行規約にもある協力会員としてにとどめるべきである。
(二)組織体か運動体か
このテーマは、JPCにおいて絶えず論じられてきた。すべての団体は、組織体と運動体の両要素をもっているが、それぞれの団体の目的や成り立ちから、どちらかの面が強く表わされる。JEFは組織体として、JPCは運動体としての面が、比較的にではあるが強いように思われる。そこでそれぞれの長所短所の現われを見ることができる。
組織体には、正しく機能し、手順よく運ぱれていくなら、大きな実行力が伴う。反面、十分に組織内コンセンサスが得られないと、なかなか事が運ばない。思い切った施策を実行するには強力なリーダーシップが必要で、是々非々主義に陥ると鼻持ちならぬ停滞を招くことになる。
運動体には、たとい少数でも意識の高い人々が働けぱ、かなりの活動ができるという利点がある。しかし絶えず意識を高揚しつづけないと、回転が鈍くなり、ことに経済的なピンチに見舞われる例が多い。組織体であれば一旦決定したことは組織の責任であって、組織が保たれている限り、責任の所在がはっきりし、チェックされる。ところが運動体の場合は、活動が停止すると、責任もあいまいになり、だれもこれをチェックすることができなくなるという欠点がある。
日本の福音派の場合、組織体か運動体かという問題と共に、日本の各社会層に共通な、日本的な体質という課題もこれに加わっているから、更に複雑になる。これについて論述はしないが、いわゆる「日本教」的思惟が福音に先立っていて、欧米的な割り切った考え方も通用しない。とかく福音派の社会認識からして、人々の考え方などは無視する傾向があったため、福音的というのがタテマエに終わり、実体は何のことはない日本的に処理されるところにホンネがあった。ここでもう一度、聖書的考え方とは何かを、日本あるいは日本人という場面でとらえなおす必要がないだろうか。さもなければ、ただいたずらに議論の繰返しを続けて時間をくいつぶすぼかりである。
(三)国際連帯の必要増大
日本のこうした現状と裏腹に、世界は激しく動いている。ことにICOWE(ローザンヌ会議)以後、福音派の伸張が著しいことは周知の通りである。LCWE(ローザンヌ継続委員会)はWEFとの関係調整も進め、人材やメンバーを重複させつつ、それぞれの目的と機能を十分に生かして、働きを拡大している。LCWEは、ローザンヌ以後、世界の各地域ごとに宣教会議、指導者会議を開き、特に第三世界での福音派勢力の伸張をはかってきた。その一つが今秋のシンガポール会議であり、全世界的な目標として明後年に予定されている世界指導者会議であることは、冒頭に述べた通りである。
既にこうした組織や会議にかかわりのある重要人物の来日も再三にわたり、日本の福音派グループと接触を求めてきている。JEAとしては過去の事例を勘案して、日本におけるそのような接触の窓口は、JEAをほかにしてはないことを確認し、そのことを折あるたびに表明している。世界の中では、JEAのような国内の福音主義的立場の連合体を結成することができない、またできても有力なヴォイスをもっことがむずかしい国が多いようである。その点、先述したような問題はあるにしても、国内的なまとまりをもって、リベラルな勢力と比較的明白な一線を画することができるわがJEAは、もっとその点を明白にしてもよいと考える。そのためには内外ともに広報活動がほとんどされていない現状は、早急に改善されねばならない。そうした面での要望はあっても、このための協力体制がなお乏しいように思う。
国際的連帯の必要は、日本からもようやく百人台になりかけている海外宣教師の現場で叫ばれている。宣教師派遣国としては、あまりに日の浅いわが国であるが、既に欧米主導型宣教活動の時代が終わり、先進国、後進国の別なく相互に宣教師を送り合うような時代にあって、お互いの情報交換、相互理解の必要はますます大きくなっている。島国で国際的つきあいのへたな日本も、福音的な見地で新たな開国を迫られていると見ることができよう。
三 将来と展望
(一)JEAの役割
厳粛かつ重大なこの時期にあたって、JEAはどんな役割をもっているだろうか。第一にあげるべきことは、その創立から掲げられてきた、またそれゆえにこそ結成されたゆえんである、「聖書信仰」の宣明である。歴史的福音主義プロテスタントの立場が一致と共同の基盤である。そのゆえにこそ、創立当初の三団体による構成が保たれているのである。第一回日本伝道会議開催にあたっても、かたくなとさえ見えるほど排他性を表わした。それだけに、昨年『福音と時代』誌寄稿を通して問題を投げかけたN教団K教授の見解は、心ある者たちの痛みとなったし、また新たな問題提起として受取らざるを得なかった。しかしながら、人間の組織である以上、ことにそれが個人の信仰という、いわば聖域に属する問題であるだけに、一面だけから追及すれば宗教裁判や魔女狩りの愚を行なうことにもなりかねない。こうした問題の処理には、広い心と鋭い感覚をもってあたらねばならない。そのためには、JEAにすぐれた指導性を期待したい。
実務的な面で考えるとき、JEAは日本の福音派の共通の広場として、さまざまな情報交換の機能を備えた組織であることが望まれる。JPCやJEAの形成の過程で、意外に大きな収穫があったことは、普通あまり評価されていない。それは単純なことであるが、自分の属する教派以外にも福音的信仰に立った教派があったことの発見である。お互いが他を知らなかったために、とんでもない誤解や無理解が多かった。本で知っていることも、具体的に人格を通して知り合うチャンスが多くなった。それによって他からよい点を学ぶことができたと同時に、自分の属するグループを客観的に評価し、自信を深めることができた。JEAの規約第四条にある「各構成団体の特種性を尊重しつつ」という文面を、もう一つランクを下げて各教派教団にあてはめてみてもよいのではないか。組織的合同に多くの期待をかけてきたエキュメ二カル運動との大きな違いはこの点である。
更にJEAが、今後日本の全福音派の結集を目ざしていくなら、どうしても働きの地方化をはからねばならない。現在多くの府県に、府県単位の教会連合があって、さまざまな活動をしている。ある県ではカトリックまで含んだ幅広い組織であったり、ある県では福音派が主導権をとっていたり、かなりの差異がある。NCCの下部組織としての機能も、ある地方では果たしているのではなかろうか。それはさておき、わがJEAが府県単位で結成されることは夢であろうか。むしろその方が健全かつ強力な組織形成ができるように思う。しかしそれが地方化である以上、中央からの頭割りは避けねぱならない。同時に、自覚の高まった、福音派優勢の府県から進んでそのきざしが起こるのを期待したい。既に親睦団体的にそうした交わりがある地方もかなりあるので、今後JEAの活動を進めるにあたって、そうした地方では必ずそのグループに主体性をもってもらうように働きかけることが大切であろう。
(二)構成三団体の将来
それぞれ目的と歴史をもって今日に至った三つの創立会員について、指図がましいことを述べる資格も根拠もないが、幾つかの可能性の一つとして、あるいはこうあってほしいという期待の例として、考えられることを申し上げたい。JEMAにっいては、外国宣教師団体という特殊性から、おのずから制約があるので別としよう。
JEFとJPCについては、前述のように団体加盟と個人加盟という組織上の違いがあり、JEFについては、現在は目立たないが明らかにある教理的立場を主流として成立している。しかしJPCは、ある人々が誤解したようにカルヴィ二ストのグループでは決してない。教理的立場を異にしても、聖書信仰に立つ人々の同盟である。詳しく言えば、ルーテル主義者もバプテスト主義者も居るのである。そこでもし、JEFが教理的立場を同じくするグループであることを明白にすることができれぱ、理解はしやすくなる。あるいは他の教理的立場で教派グループができれば、もっと明らかになる。仮に福音連盟が「ホーリネス連盟」であるなら、「カルヴィ二スト連盟」「ルーテル主義連盟」「バプテスト主義連盟」……「単立教会連盟」というように同格視できる。そしてJEAは、それらの諸連盟、あるいは単個教会が直接加盟するという形に変えられる。念のために繰り返すが、これはあくまでも頭の中で整理するための空論であると御承知願いたい。
この場合、JPCはどうなるかと言えば、こうして形成されたJEAが明らかな組織体である以上、そこには組織としての限界から生じる諸問題があり、ことに生きる聖書信仰の維持という点で、タテマエだけで内容が伴わなくなる危険が多分にある。そこでJPCは本来の個人加盟、意識集団としてのあり方に立ちもどり、JEA全機構を通して、中核的メンバーは信徒、教職を問わずJPC会員である、というような役割をになうものであってほしい。そうすれば運動体としてのJPCが組織体としてのJEAに、絶えず生きた聖書信仰の火を燃やしつづける原動力として用いられ、ともどもにその目的を果たすことができる。
現実の問題としては、さしあたりJEFのメンバーが積極的にJPCに加盟するという形で、両者の機能の長短を相殺することができよう。またJPCが地方的な活動をする場合、会員であるなしにかかわらず、JEF加盟の教会や教職との連結をはかり、協力を要請することが望ましい。
(三)各種伝道団体のあり方
欧米と異なり、日本の超教派団体のほとんどは、日本の教会から生み出されサポートされているのではなく、教会よりも先に海外から送り込まれ、外資によって成立、今なお海外に大半の財源を頼っている。そのため、教会は自分の益になる間はこれを利用し、なかなか自分たちでこれを支えていこうという姿勢にならない。反面団体の側にも、金づるを握っているからというわけではないが、とかく日本の教会の上に立って、文字通り「超」教派的に君臨する傾向があった。この両者の悲しむべきなれあいが、今日の困難を招いたと言っても過言ではない。本来「インター・デノミネーション」(教派間)であるべきものを、いつのまにか「スーパー」と理解してしまったのである。
両三年前から、こうした各種伝道団体の間で懇談会を定期的に開き、相互の意見交換が行なわれるようになった。その席上、ある程度の人々からは、こうした団体が本来教会に仕えるものであることを強調し、その立場での発展拡大を考えるべきであるとの意見が述べられ、大方の賛同を得ている。そのような傾向が次第に増しつつあり、個々の働きに影響しはじめているのは喜ばしいことである。しかしまだまだ伝道団体当事者の対教会姿勢には不十分な点が多く、ことにこうした団体への期待度が大きいと思われる、単立教会や小規模の教派グループとの関係に比べ、中程度の教団との接触、したがってそれらからの協力の度合が少なすぎる。
教会や教団側からも、もっと主体的にこうした伝道団体を支援し、共同の働きへの責任をになう姿勢が表われることを期待する。何も新しい団体を作り出すまでもなく、ドル安で経営が危機に瀕している伝道団体を助けながら、働きの方針なり方策を、もっと日本の教会の要望や好みに合わせていくことも可能ではないか。金も出さずに口ばしを入れることはしにくいが、また金を出しているのだから言いたいことを言い、やりたいことをやる、というのも困る。その点、福音を看板に掲げる者らしく、聖霊の調和によって、よい協力関係が作られるよう望みたい。
むすび
(一)日本をキリストヘ
第一回日本伝道会議のテーマとして、この言葉が掲げられた。世界的な福音派の台頭という潮流の中で、全般的なキリスト教不振と見える日本にも、そのきざしを十分に見ることができる昨今である。日本の福音派の当面の目標は、何としても一億を越える同胞に福音を伝えることであり、そのために、全国各地に教会を生み出し、また教会を強力に成長させることにある。最近の都市化現象により、今までの教会分布では届かない地域がふえている。また過疎地域が、福音については一層の過疎地になっていることにも関心を向けたい。全国六五〇近い市の中で教会の全くない市もかなりある。実はこうして統計もすぐに出せないほど、我々は日本の宣教に対する重荷が少ないのである。町や村に至ってはどうであろうか。郡を単位として数えても相当な数の未宣教地があるのだ。海外へ宣教師を送り出すことも、まだ緒についたばかりで、大切なことには違いない。しかしその前に(外国宣教に消極的な人がいつも口にする通り)日本の中で宣教を必要とする地域に、人を送るような訴えがあったろうか。
地域的な広がりと共に、ぜひ考えたいことは社会の各階層に対する福音の浸透である。どの教会でも家庭婦人は多い。青年が多い教会も少なくない。しかし中年の働きざかりの男性は、共通的に乏しい。なぜか。こうした隘路の打開のためにも、福音派諸教会が共同戦線を張ることが急務である。すぐにも事を起こしても早過ぎない。その原因を客観的に調査することも必要である。医者の診断と同様に、正しい状況分析がなければ効果的な対策は立たない。
調査や統計などに対するアレルギー的拒否反応も、最近は少なくなり、進んでデータを公開する人々も増してきた。いたずらな警戒心と共に、数を見て軽率に判断する無責任な批判がなくならなければ、こうした面での協力はむずかしい。場合によっては自分たちの弱点を暴露することにもなりかねないが、もしそれがあるなら、隠しておいたからと言って成長が進むはずもない。とかく信仰や、時には聖霊まで持ち出されて、事の本質がすり代えられてしまう、福音主義者の陥りやすい落とし穴も大分埋められた。何としても日本全国に福音を満たしたいものである。
(二)福音の深化を目ざす
諸教会の協力によって期待される面は、あらゆる分野に及ぶ。異教的文化が繁栄し、今目の経済成長もまたその基盤から生じている以上、我々福音派はそこにも挑戦していかねばならない。
すなわち、このような国民生活のかかわりの中で、信徒ひとりひとりの生活実践に、聖書信仰がどう適用されるかという課題である。ほとんどの信徒にとって、教会から帰り、家庭から出れば未信者の中に孤立した自分を発見させられるのである。大半の場合は、家庭でさえそうである。職場や学校、居住地で同じ信仰に立つ信徒同士が助け合い励まし合えたらどうであろうか。時には、教会を異にする信徒の交わりが悲しい事態を招くことがある。しかしこれは防げないことではない。しかるべき教育、指導の下に、協力ができないものだろうか。
日本のクリスチャンの質的向上のためにも教会の協力的なプログラムが必要である。教派的、教理的違いを越えて協同できる働きに対して、広い心をもって賛助することは、結局お互いの益でもあることを知るべきである。ことに専門の分野についての研究、特殊な領域での伝道などについては、かなりの規模の教団であってもすべての需要に応じられるものではない。福音派共同の人的資産として、すぐれた人材を養うことも大切ではないだろうか。
神学的なテーマとしては、特に聖書論、教会論、宣教論の必要が、大きな比重を占めている。ここ数年JEAや傘下団体の会合で、しばしばこれらの主題が取上げられ論じられてきたことは御承知の通りである。今後ともこれらを深く追究し、単に日本のためだけでなく、世界に対してもこの面で貢献することを期待してよかろう。LCWEにもWEFにも、またKGKが加盟しているIFES(国際福音主義学生連盟)にも、それぞれ神学分科会、あるいは委員会があって、多方面に活躍している。そこから有能な学者が育てられることにもなる。近い将来そうした働きに推薦できる人材は、既に起こされているように思う。教会のバック・アップがこの面にも必要である。
(三)世界宣教への貢献
主イエスの宣教大命令は、国境を越えたものであり、神の収穫場に国の違いはない。国内国外と分けても宣教の本質は同じである。日本の福音派は今や日本のことだけを考えていればよい時代ではなくなった。海外宣教は宣教師だけに負わせる余分な負担だと思ってはならない。日本の伝道をしていても、それは世界の一部としての日本の伝道なのである。そのような世界的な視野をもって、聖書信仰者が立ち上がるなら、いろいろな面で世界に貢献できる機会も決して少なくはないのだ。さしあたり、アジアでの日本の位置を考えるとき、過去の歴史を顧みればなお更、そこに多くの負債があることに思い至らされる。
教会教派の協力はやがて各国福音派の協力となり、やがては福音的エキュメ二ズムとも言える、全世界の福音主義聖書信仰者の協カヘと発展するであろう。そのとき、なすべき責任を果たした我々の光栄はどんなであろうか。主の再臨による終末を迎える前に、その栄誉にあずかれたら幸いである。少なくとも、神の歴史の最終場面に臨んで、取り残されることのないように願うものである。数年後に迎える予定の第二回日本伝道会議においては、今まで述べた諸課題がかなり整理され、一層明確な方向づけがなされる会議として期待したい。同信諸氏の積極約な御協力を頂かなければ、到底その目的を果たすことはできない。切にお祈りを願う。
最後に、使徒の働き第十一章から、うるわしい協力関係が「大ぜいの人」を主に導いたという記事を指摘して筆をおく。宣教活動の基地となったアンテオケの教会から学ぶ事がらは多くある。彼らの上に「主の御手があった」こと、「りっぱな人物」の指導があったこと、「教会に集まる」ことが奨励されたことなどの条件によって、すばらしい結果がもたらされた。我々の働きについても、多くの示唆を感じさせられる。日本の福音的諸教会が、アンテオケの教会のように、「大ぜいの人」を信じさせるに至るよう、主の御手がかたくおかれるよう共に祈ろう。りっぱな人物が指導者として立てられるように、また信徒が教会の形成に積極的に加わるように、互いの協力もこうした基本線をわきまえてなされることが願われる。
<参考資料>
JEA創立宣言
混沌たる世界人類の様相と、これに生命と光を与うべき、内外キリスト教会一般の趨勢にかんがみ、過去四ヶ年の祈祷と熟議の結果、「聖書をことごとく神の言と信じ、これを信仰と生活の動かすべからざる基準」とする我らは、宣教師、邦人相携えて、ここに日本福音同盟を創立し、厳正な聖書信仰にもとづく福音宣証のため結束し、内に相互の交友と建徳を志し、外に広く現時代の祖国とアジアおよび世界に仕えんとするものである。
日本福音同盟は、恵ふかき神の摂理により、日本の福音信仰者たちの重荷とヴィジョンの中に発芽誕生したるものにて、何ら人間的政治的、他律的な督促や慫慂によるものでなく、その今後の運営は、聖霊の導きのもとに、祈りぶかく、一切自主、自律的に成さるべきである。 右宣言する。
一九六八年四月二十九日 日本福音同盟創立総会
京都宣言
現代世界はまことに混迷を極めており、わけてもわが国においては、靖国神社法案において端的に見られる反動化の傾向がいちじるしい。その中にあって、唯一の救い主イエス・キリストをあかしすべきキリスト教会においても、ある教会においては、聖書からはずれたメッセージが語られ、福音を世俗化する誤った傾向が増大しつっある。私たち聖書信仰に立つ者は、このことを憂えると同時に、私たち自身も、福音を全世界に伝えるべき大使命(マタイ二八・一八-二〇)に対して、忠実でなかったことを認めざるをえない。それで、「聖徒にひとたび伝えられた信仰」(ユダ三)のあかしのために、宣教に関する聖書の教えを、現代において正しく把握し、これを明確に宣言する必要を、ここに痛感するに至った。そこで私たちは、日本伝道会議を開き、互いに重荷を分かちつつみことばを、ともに学んだ。
私たちは現代社会が多くの問題をかかえていること、および、それに対して、従来私たちの力が及ぱなかったことを認識するものであるが、まず、中心的問題として、今日における宣教をとりあげた。いま、この会議を閉じるにあたり、この宣言文を発表する。
一 私たちは、聖書六十六巻が唯一の誤りなき神の権威あるみことばであり、私たちに、罪からの救い主である主イエス・キリストを示し、信仰と生活の唯一の基準であることを告白し、宣言する(第二テモテ三・一五-一七)。それゆえに、聖書を、救いの経験についての単なる人間の証言にすぎないと見る立場や、聖書を現代の諸問題解決のための単なる参考資料とする立場をしりぞける。
二 私たちは、福音の中心である主イエス・キリストが神の受肉者であり(ヘブル一・三)、唯一の救い主でいますことを告白し、宣言する(使徒四・一二)。それゆえ、主イエス・キリストを単なる理想的人間と見る立場や、社会改革の模範と見る立場に反対し、また、イエス・キリストでなくても救われると教える異教や混合宗教(シンクレティズム)、ならびに、イエス・キリストが救い主なる神であることを否定する異端をしりぞける。
三 私たちは、福音の提供する救いが、単に貧困や政治的・社会的圧迫からの解放ではなく、人間の不幸・悲惨の根本的原因である罪、および、その結果であるいっさいのものからの救いであることを表明する。主イエス・キリストは、そのために私たちの身代わりのあがないをなしとげられたことを告白する(第二コリント五・二一)。また全人類は、キリストの十字架上のあがないによって、すでに救われているとする新普遍救済主義(ネオ・ユ二ヴァーサリズム)をしりぞけ、信仰と悔い改めによって新生した者のみが救われることを告白し、宣言する(ルカ一三・三、ヨハネ三・三-五)。
四 私たちは、この福音を宣べ伝える使命を主から委ねられた主体が教会であることを確認する。教会は主の再臨の日まで、聖霊の助けにより、建て上げられていくと同時に(工ペソ四・一二)、その主イエス・キリストを宣べ伝える使命があることを告白し、宣言する(マタイ二八・一八-二〇)。単なる人間の努力によって、理想的世界が実現するという思想に反対し、私たちは、神の力によってのみ神の国が完成することを告白し、宣言する。聖書信仰に立つ私たちは、教会の使命を遂行するため、全き献身と御霊による一致・協力が求められていることを告白し、宣言する(マタイ二四・一四、ピリピ一・二七、二八)。
五 私たちは、日本のすべての教会が世界宣教の使命を与えられていることを確認し、ことに、日本における宣教に大きな責任のあることを痛感する。そこで、私たちは主の御前に、次のことを決意し、宣言する。
まだ福音を信じていない人々に、福音宣教の重荷をおぼえる。私たちは、それぞれの関係団体の主体性を尊重しつつ、福音宣教のわざにともに励む。すべての信徒はキリストの証人であり、宣教の担い手である。伝道の具体的協力については、今後、日本福音同盟において、さらに探究する。私たちは、御霊の教えるところに謙虚に従い、聖書の示す福音を宣教し、主のみこころのなるため、ここに献身を新たにすることを表明する。
主よ。私たちが主の忠実な証人となることができるようお助けください。アーメン。
一九七四年六月七日
日本福音同盟主催 日本伝道会議
声明
私たちは、一九七四年六月三日より七日まで、全国から千三百名の代表者が集まり、京都において、日本伝道会議を開催しました。
聖書を誤りない神の言葉と信じるわたしたちは、祖国日本の宣教をさまたげ、信教の自由を阻害し、憲法第二十条、第八十九条に違反する靖国神社法案が、再び国会に提出されないように、強く要望し、ここに声を一つにして同法案の反対を内外に声明いたします。
一九七四年六月七日
日本福音同盟主催
日本伝道会議
日本宣教百年記念聖書信仰運動大会宣言
聖書、即ち万物の創造者であり、又人類歴史の支配者である神の誤りなき御言葉によって、我らは慈に日本の国に於ける福音宣教百年記念に当って、次の宣言をなし、来るべき宣教第二世紀の為に立てる、我らキリスト者の証しの言葉とする。
一、我らは過去百年間、キリスト者として、個人生活的にも、亦国民生活的にも、一切の偶像崇拝を廃棄すべき聖書の命令に応えることに於いて、欠けたところの多かったことを神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白する。
二、我らは聖書によって、国家と教会が、共に神の主権の下に立つ、二種の相異なる正当な秩序であることを認め、政教分離の原則に基づき、信教自由の基本的人権を保護する現行憲法を、その点に関して聖書的と認めて支持する。
三、我らは我が国に於いて、右の政教分離の原則が無視され、信仰の自由が甚だしく圧迫された過去にかんがみ、今後国家行事の中に、宗教的要素の混入することのないように監視し、かかる過誤の排除に積極的に努力する。殊に伊勢神宮は宗教であるが故に皇室との密接なる関係、或いは国民の精神的中心、或いは祖先崇拝の美風、等の如何なる理由又は名目によっても、国家の特別厚遇を受くべきでなく、又かかるものとして国民一般に強制されてはならないことを、重要なる点として強調する。
以上の三点を貫いて、国家と教会との正しいあり方のために、我らは一つの聖書信仰によって、協力して信仰のよき戦いを戦うことを誓う。
一九五九年十一月十八日 日本宣教百年記念聖書信仰運動大会
日本福音連盟(JEF)信仰基準
(昭和四二年一〇月二七日臨時総会にて承認)
(前文)この連盟は左の如き信仰を有する者によって構成される。
一 聖書を聖霊の感動による唯一の誤りのない権威ある神の言と信ずる。
二 神は唯一であって、父、子、聖霊の三位一体であられることを信ずる。
三 主イエス・キリストの神性と人性、処女降誕、代償的贖罪の死、復活、昇天、および可視的再臨を信ずる。
四 新生は聖霊により、悔い改めと信仰を通して与えられることを信ずる。
五 聖霊の内住による基督者の聖化を信ずる。
六 主の再臨の時、救われた者は栄化し、救われていない者は審判によみがえることを信ずる。
七 主イエス・キリストにある聖徒の霊的交わりを信ずる。
JPC信仰基準
一 (聖書)私たちは、旧新約六六巻が、十全霊感による誤りのない神のみことばであり、救い主である主イエス・キリストを示し、信仰と生活の唯一の基準であることを信じる。
二 (神)私たちは、万物の創造者であり、三位一体である唯一の生けるまことの神を信じる。
三 (キリスト)私たちは、主イエス・キリストが神の受肉者として処女降誕し、十字架上で私たちの罪のために死に、復活し、昇天されたことを信じる。
四 (救済)私たちは、キリストによる救いが罪と死からの解放であり、信じる者を聖霊が新しく生れ変わらせてくださることを信じる。
五 (教会)私たちは、キリストの体である教会に属するすべての信者の聖霊による一致を信じる。
六 (終末)私たちは、主イエス・キリストがさぱき主として再び来られ、キリストを受け入れた者は永遠の祝福を受け、キリストをしりぞけた者は永遠の呪いに定められることを信じる。
JEMA信仰基準
A 聖書は神により与えられ、霊感によって書かれ、誤りない完全に信ずるに価するものであると信ずる。信仰と行状のすべてにおいて最高の権威を有することを信ずる。(テモテU三・一六、ペテロU一・二一)
B 父、子、聖霊の三人格において、永遠にいます唯一の神を信ずる。(申命記六・四、イザヤ四三・一〇、一一、テモテT二・五、コリントT八・四、マタイ二八・一九)
C われらの主イエス・キリスト、肉において顕現された神、その処女降誕、罪なき生涯、天与の奇蹟、身代りと贖罪の死、その身体のよみがえり、昇天、執りなしのわざ、その力と栄光の中の再臨を信ずる。(ヨハネ一・一、一八、ヘブル一・八、テトス二・一三、ヨハネT五・二〇、コリントT一五・三、四)
D わざによらず、信仰により、主イエス・キリストの流された血しおによる滅びにある罪人の救い、聖霊による新生を信ずる。(ロマ三・二三、ヨハネ三・七、ルカ二四・四六、四七、ヨハネ一・一二、一三、ペテロT一・一八、一九、二三、ロマ一〇・九、一〇)
E 聖霊を信ずる。その内住により信ずる者が聖い生活をなし、主イエス・キリストのために働き、証詞しうる者とされることを信ずる。(テトス三・五、ガラテヤ五・二二、二三、テサロ二ケT五・二三、二四)
F すべての真の信者、教会、キリストの体の霊における一致、(霊において一つであること)を信ずる。(ロマ一二・五、コリントT一〇・七、ガラテヤ三・二八、ヨハネ一七・二一、エペソ四・一三)
G 救われた者、減びた者両者のよみがえりを信ずる。救われた者は生命によみがえり、滅びたものは滅びによみがえることを信ずる。(ヨハネ五・二八、二九、黙示録一四・一一)
あとがき
神の摂理のうちに日本福音同盟(Japan Evangelical Association,JEA)が創立されてから満十年が経過しました。JEA十周年を記念する行事の一つとして記念誌を発行することが、昨年(一九七七年)六月の第七回総会で決議されました。その決議に基づいて、JEA実行委員会は、実行委員の中から泉田昭、岡村又男、H・ジョンソンの三氏と、それに加えて村瀬俊夫氏(JPC編集委員長)とを十周年記念誌編集委員に委嘱しました。この四名で「日本福音同盟十周年記念誌編集委員会」が組織され、昨年十二月十九日に最初で最後の委員会を開いて、本書の内容の大綱を決定し、実行委員会の承認を経て今年二月から実行に移され、どうやら実現に至らせることができました。
原稿執筆のための期間が極度に短く、広く人材を求めて執筆を依頼する余裕がありませんでしたので、乗りかかった船であると覚悟し、日本人の編集委員が大幅に責任を分担することになりました。昨年の第七回総会で大方の要望のありました「日本の福音派戦後三十年の歩み」は、泉田昭氏にお願いしました。この執筆のために注がれた同氏の献身と労苦は、大変なものでした。戦後日本の福音派の歴史を知る貴重な資料となるでしょう。岡村又男氏の司会で「日本の福音派の現状と将来の展望」と題する座談会が開かれたのは、今年三月十四日のことでした。その内容をカセットテーブから原稿にする仕事は、私たちに代わって中村寿夫氏(JPC編集委員)が引き受けてくださいました。村瀬俊夫氏と三森春生氏(JEA実行委員・宣教調査委員長)との論文は、本書に収録されることを予定して、今年二月のJPC全国大会で講演されたものに基づいています。これまでに出された宣言文や声明文、各創立会員の信仰基準などを参考資料として巻末にまとめました。なお、巻頭に安藤仲市氏(JEA実行委員長)から、JEA十周年にふさわしい一文を寄せていただくことができました。
いろいろ制約がある中でJEA十周年記念の本書が刊行されるに至ったことは、これまで成長してきた日本の福音派にとって、輝かしい未来を約束する確かな<しるし>であると思います。その輝かしい未来に向かって、日本の福音派が大きくはぱたいてほしいと願いつつ、本書の表題を「はばたく日本の福音派」としました。おわりに、本書の刊行のために、いのちのことば社出版部の特別なご協力をいただきましたことを記し、感謝の意を表します。
一九七八年四月
JEA十周年記念誌編集委員
泉田昭、岡村又男
H・ジョンソン、村瀬俊夫