塩 原 宣 言(第3回日本伝道会議)

「日本、アジア、そして世界へ」

《前 文》

主イエス・キリストをかしらとする地上の教会は、神の国にかかわる主のみ心が行われるために建てられてきました。私たちは全世界への福音宣教がこの教会の働きの核であり、終末的危機の深まりの中で、すべての教会があらためて共に担わなければならない緊急の責任であると信じます。
私たちは、この共同責任を果たさせようとされる主の愛のうながしと聖霊の迫りの中で、ここ塩原町に集い、第3回日本伝道会議を開きました。1974年の第1回日本伝道会議では宣教協力のための一致を聖書信仰を基盤としなければならいことを確認し、日本の聖書信仰の群れ全体として自らの存在を明らかにしました。1982年の第2回日本伝道会議は、同じ聖書信仰の群れの拡大と成長を証しする機会となり、それゆえの問題や取り組まねばならない課題が明らかにされる時ともなりました。
それぞれの会議への評価や批判とは別に、これら2つの会議を用いられた主の摂理のみわざは偉大でした。主は私たちの教会とその宣教のこれまでのあり方を正し、これからに備えるための共通理解を与えてくださいました。「教会は主から委ねられた宣教の主体である」という当然のことの新しい理解です。これは宣教活動の少なからぬ部分を、いわゆるパラチャーチの働きとし、自らの責任として受け止めないできた教会のあり方を問うこととなりました。世界宣教が教会の主体的な責任であるなら、教会はそのための有効な協力と共同の働きを育てなければなりません。日本福音同盟は、このような流れを受けて1986年に再編されました。日本の聖書信仰に立つ教会や教団および伝道団体の協力機関としての、よりふさわしいあり方を求めたからでした。これは日本の教会が、この激変の時代に、この国と世界の宣教においてより適切な役割を果たすための主のみ旨でありました。私たちは、日本福音同盟の信仰告白と過去2回の日本伝道会議京都宣言を前提とし、この会議において主にある連帯を確かめ、協力の実を結ぶため導きを求めつつ、以下のことを第3回日本伝道会議の宣言として公けにすることに合意しました。

T.日本、アジア、そして世界

(1)日本
近代日本における福音宣教も二世紀の半ばに達しようとする今日、私たちは宣教の主が成し遂げてくださったすべてのことに深く感謝します。主は内外の働き人を用いて教会を建てさせ、特に、戦後の復興期から今日に至るまで聖書信仰の群れを導き、その働きを祝し、聖徒たちの労苦に報いてくださいました。そして今、各地域において、地上の栄光を求めずにひたすら種を蒔き、魂の育成のために働き続け、教会を建てるために務めている主のしもべが、この国の宣教の支えになっていることを感謝します。さらに、受けることのみ多かった日本の教会が、与える特権にあずかるまで祝福されているときにも、今日、なおも宣教の著しく困難な地に踏みとどまり、犠牲的な働きにあたっている多くの群れがあることを、私たちは忘れることができません。とはいえ、聖書信仰に立つ日本の教会は、与えられている恵み全体を見なおし、新たな宣教の連帯を持って目をアジア、そして世界に向け、世界宣教のビジョンを与えられています。

(2)アジア
日本福音同盟(JEA)は再編後、アジア福音同盟(EFA)、世界福音同盟(WEF)に加盟し、宣教のための世界の連帯に具体的に参加しました。特にアジア福音同盟への加盟は、アジアに対して日本の過去を負う私たちにとって、キリストにあるゆるしと和解が新たに与えられる機会となりました。日本福音同盟は、1990年8月のアジア宣教会議を第3回日本伝道会議に直結するものとして位置づけ、それによって、「日本、アジア、そして世界へ」という宣教協力具体化の方向が明らかにされました。事実、アジア宣教会議は日本福音同盟が当事者として関与する最初の大規模な国際会議となりました。
私たちは、世界宣教への日本の教会の役割は、アジアでの宣教協力をとおして果たされなければならないと考えます。私たちの教会は自らの責任をあらためて受けとめると同時に、日本の教会に対するアジアの期待が、私たちの意識をはるかに越えていることにあらためて気づかされています。例えば、宣教師が続々と送り出されるための熱心が求められています。宣教協力進展のための人材育成は、日本の教会が自らのために、またアジアの教会のために負うべきつとめです。

(3)世界
世界が通信や交通手段の進歩によって急速に狭くなった時代に生きている私たちには、世界宣教はこれまでよりはるかに身近なものであり、大きな責任であるという地球大の視点が必要です。西暦2000年を目標としての世界宣教計画が、いくつかのプロテスタント教会とローマカトリック教会から提出され、そのうちのあるものはすでに実行に移されています。私たちは、教会としても、ひとりのキリスト者としても、このような働きの局外者であってよいはずはありません。いわゆる世界の福音派は、早くから指導的な人たちの呼びかけによって世界宣教のために協力運動を進め、大きな成果を上げてきました。しかし、それはその運動の多様化と拡大にもかかわらず、必ずしも実効あるものとならず、全体としては大きな転換期を迎えていると見られます。今、新たな世界的規模の教会協力の拡大と宣教協力の進展こそ、私たちが求めなければならない方向であると信じます。具体的には、国際的な交流による世界大の教会の交わりに貢献することです。また、多くの在日外国人への宣教とその協力は、そのまま国内での海外宣教のわざとしてなおざりにできません。世界中から求められている救済活動においての責任も小さくありません。多くの必要の中で、今、最も求められているのは、教会の主であるお方の導きの確認であると私たちは信じます。

2.地域教会そして普遍的公同教会

(1)公同教会の自覚
福音宣教の最も具体的な表現の一つは、地域教会を主体とした地域の宣教活動です。地域における宣教を抜きにして、日本の、アジアの、そして世界の宣教を考えることはできません。世界宣教という神のみわざにおける地域全体の中心性は、マニラにおける世界伝道会議においても、昨年のアジア宣教会議においても確認されています。また、第3回日本伝道会議が、日本各地での地区会議を踏まえて開かれたのもこの視点に基づいています。しかし、地域宣教の急務にもかかわらず、今日の教会はこの世からの精神的・文化的挑戦に直面し、ますます多様化する宣教方策の選択に追われる中で、宣教の厳しい状況に置かれています。このような時、教会は各々の教会・団体のもつ使命を果たして行く一方、地域教会主義の殻に閉じこもる個人主義から守られ、むしろ教会意識の改革により、公同教会の自覚を聖書信仰に立つ教会のコンセンサスとして築き上げなければなりません。そして、第2回日本伝道会議が「普遍的公同教会の一員としての自覚に立った一致協力はなお不十分」とした認識から、さらに一歩前進して、私たちは、宣教における教会間の協力を有効にし、教会と諸団体、教職と信徒、宣教師と日本人奉仕者、男性と女性などの働きを統合して公同教会の自覚を証しします。

(2)賜物の結集
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」(エペソ1:23)であるように、公同教会の特長は、一つでありながらそのうちに満ちている賜物の豊かさと多様性にあります。教会にはみことばの権威、救いの教理、福音の理解における一致が不可欠です。同時に、宣教の主体である教会を豊かで生き生きとしたものとする聖霊の賜物の多様性が必要です。みことばに仕えて福音宣教にあたる教職者も、福音の証人として召されたすべての信徒も、同じ聖霊から多様な賜物をいただいています。同様に、地域の教会の賜物も諸団体の賜物も、男性の賜物も女性の賜物も、若者の賜物も高齢者の賜物も、対立ではなく各々の賜物の結集によって、宣教のために共に用いられなければなりません。このように結集が生きて働いているところでは、聖霊による力強い宣教の前進、地域教会を越えた宣教の協力、新しい宣教方策の試みが可能となりましょう。さらに、私たちは、同じ賜物の結集が日本をとおしてのアジアや、世界の宣教への貢献についても言えることと信じます。

(3)力量にふさわしい働き
私たちは、キリストのからだである教会が「一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」(エペソ4:16)ことを信じています。しかし、宣教の前進を阻んでいる一つの要因に、教会の各部分、とりわけ信徒一人一人の賜物と力量が教会の建て上げと宣教のために有効に用いられていないことがあると指摘されています。この事態に対し、信徒が宣教の大切な担い手であることが、教会の指導者においても信徒においてもしっかりと認識されること、信徒の活動の場が十分に備えられること、宣教の担い手としての訓練や教育、また、弟子作りのプログラムがより整備されることが緊急に求められています。今日、地域教会のみならず、日本、アジア、そして世界で多様に展開されている、家庭や職場での日常的な証しや伝道から海外での宣教や奉仕に至るまでの宣教の場のほとんどにおいて、信徒の働きが期待されています。しかし考慮すべきは、働き人の増加とそれぞれの多様性が強調されるあまり、ばらばらな活動や、宣教の前進の妨げにならないようにすることです。そのためには機械的な統制ではなく、すべての活動に統一性と方向性をもたせる共有の戦略と方策が必要となります。

3.宣教の戦いそして勝利

(1)霊的な戦いと宣教戦略
宣教は「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か」である十字架のことばを、「神の力、神の知恵」(Tコリント1:23,24)である福音として宣べ伝えることです。それゆえ、福音が全体として掲示される時、おのずと、宣教はこの世の諸権力の反抗と人々のさまざまな反応を招く霊的な戦いとなります。とりわけ、キリストの権威と聖霊の力により、サタンと罪の支配から信仰者を解放する活動は教会の最も戦闘的側面であり、聖霊の与える剣である神のことばをはじめとする神の武具と祈りがこの戦いには不可欠です。しかし、宣教が霊的な戦いであるという事実は、決して宣教についての大局的戦略や具体的な方策を無効にするものではありません。むしろ、私たちは自分の力を信じたり、聖霊の力を操作して宣教しようとするいき過ぎを戒めつつ、みことばと聖霊とその働きの健全な理解に基づく、大胆な宣教戦略こそ教会に必要であると確信します。今回の伝道会議に分科会での取り組みが明らかにしているように、とりわけ、今日の教会が置かれている状況の正確な分析、長期的展望に基づく戦略作りは、今は遠回りのように見えても、明日の宣教に実を結ぶものと信じます。

(2)福音とこの世
前回の伝道会議以来、いまだ全人口の1パーセントの壁は破られておらず、日本における宣教の急務は今日でも変わりありません。これまで神の恵みにより成長を与えられてきた私たち聖書信仰に立つ教会は深い悔い改めをもって、これまで以上に大胆に日本の福音化の課題に取り組まなければなりません。その上、教会は世界的規模で大波のように襲ってくる物質文明・都市文化にさらされ、また、天皇の即位礼等において見られるように、ますます力を増してきた日本的精神風土による切り崩しに遭っています。このように大きなこの世からの挑戦に対して、私たちは次の二つの局面双方における対応が迫られています。第一は、終末的で、世紀末の混迷した世に向かってキリストの主権を大胆に宣告し、福音のユニークさと宣教の持つ霊的な戦いとしての対決的側面を強調し、私たちがこの世の原理に支配されることなく、むしろ福音にふさわしい生き方をもって証しをすることです。第二は、福音の土壌に対する理解ある態度をもって「福音と文化」の課題と取り組み、両者の接点を探り、より有効的な宣教方策を模索し、私たちが福音を証しすることにより文化の変革を追及することです。しかし、いずれの対応であれ、私たちには教会を取り巻く現況を何とかして打ち破り、福音の風を通すきっかけを早急につかむことが求められています。

(3)教会の再生と成長
日本宣教は将来は、宣教の主体としての教会の動向に大きくかかっています。出生率の低下現象の中で、教会学校の在り方、信徒および教職の増加率、教会の再生能力などが切実な問題として問われている今日、私たちは宣教方策の大胆な開発と適用が地域教会の再生に向けられる必要を覚えます。教会の再生は教会の成長を促し、その再生が教会内の賜物の結集、福音の総合的な宣教、教会倍増のビジョン、「日本の中の世界」といわれる在日外国人への伝道,社会的責任との取り組み、などの宣教の使命達成の決定的な糸口となります。また、教会の再生により、教会が、「地の塩、世の光」としての力を失わず、また、キリスト者が霊的倫理的な力に満ちるものになることが推進されます。そして、教会の再生こそ、全教会を宣教に向けて動員する原動力、将来の教会指導者や働き人の苗床、地域や日本での働きをとおしてのアジアや世界の宣教への参加、海外への宣教師や奉仕者の派遣、海外の日本人教会との連携、神による最終的勝利の待望へとつながる道であると信じます。
私たちは、終末における宣教の主の勝利を確信しつつ、ここに主への祈りを持って、聖霊のご支配によってのみ果たされる福音宣教の前進のために協力し、あらゆる犠牲を払って伝道に励むことを表明します。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」(エペソ3:20,21)

1991年6月6日

日本福音同盟 第3回日本伝道会議